外国暮らしの教師業。 今年楽しみたいこと:日常生活とことん。創作。 アウトプット練習…

外国暮らしの教師業。 今年楽しみたいこと:日常生活とことん。創作。 アウトプット練習中。

最近の記事

VS 現代アート

【前回のつづき】 土壁を背景に、紺色の甚平を羽織ってたたずむOさんは、一日の仕事を終えた若いお蕎麦屋さんのように見えた。自己紹介をして伏し目がちにこっくりと挨拶をすると、眼鏡がずり落ちて、それを指で支えながら、恥ずかしそうにほほ笑む。 「今日は通訳を務めさせていただきます。よろしくお願いします」 「アリガトー」 「こちらこそ、よろ……」(←Oさん) 「ウイウイ」 「ダイジョブ―」 適当な合いの手を入れまくるフランスお三方をかいくぐりぬけて、どうにか挨拶を済ませ、Zoom

    • 物静かなOさんと話したい…

      「あなた」を語る。 「静けさ」で語る。 なんだか防音商品のキャッチコピーみたいになってしまったけれども。 先日、日本の現代アート画家、Oさんの通訳をさせてもらって、そんな経験をした。 もともと、通訳という仕事は好きだった。 日本にいた頃はこちらが本業だった。 ひょんなきっかけから理系分野に関りを持ち、畑違いの私はけっこうな地獄を見たが、仕事を通して、ひとつの道を真摯に極めようとしている専門家に出逢えること、また、彼らの見ている世界を一瞬でも垣間見れることは、そんな苦労と

      • これから本が届くということ。

        いつも投稿があるたびに、期待と憧れいっぱいでページを開く原正樹さんのnoteで、ウィリアム・トレヴァ―というアイルランド人作家の『ラスト・ストーリーズ』という本の書評を拝読した。 書評の内容の素晴らしさは、原さんのnoteそのものを読んでいただくとして(どうしてこんなにいつも、包括的なのに本質的な言語表現ができるのだろう)、じつは私は、その内容の深い洞察に行きつくまえの、この部分を読んだとき、すでに、自分でもまったく予想外なことに、泣きそうになった。 というか、泣いていた。

        • 二十年ぶりに、帰省した春の日本で、 二十年ぶりに、春風に舞う桜を見た。 他の季節には帰れたのに、なぜか不思議なほど、春にだけは帰る機会がなかった。 でも、それが二十年ぶりに、叶うかもしれない。 この偶然の幸福が、私にとってはとても意味深いことだった。 ただそれだけの日記。 今年の春あたりに、両親の介護関係で日本に帰る必要がある……とわかったのは去年の秋ごろ。その頃から、かなり念を込めて暮らしていた。 桜に逢いたい。 桜に逢いたい。 桜に逢いたい。 いったい誰に向かっ

        VS 現代アート

          【ぜんぜん終わってなかった!深堀り編】「散歩がつまらない」という自分が一番つまらない。

          昨日いただいたコメントから、またパッと光のついた感覚があったので、散歩シリーズに追記です。 ……ちなみに、まだ「気づき」という言葉も知らなかった十代の頃、この「パッ」と視界に電球がつく感覚を、友人二人と「ぴこんぴこん」と呼んで「ぴこんぴこん倶楽部」なるものに入会していました。懐かしいなあ。 で、今回の私のぴこんぴこん。 「散歩が苦手な自分がつまらない」という私の一連の記事について、紡ちひろさんから温かい理解とコメントをいただき、今後さらに解析したい点として「外的なものに刺

          【ぜんぜん終わってなかった!深堀り編】「散歩がつまらない」という自分が一番つまらない。

          遺さないという愛ー「君たちはどう生きるか」の主観的感想にかえて。

          言葉にしなければ、しないだけ、 言葉は錆びつき、記憶は薄れていく。 やっと二月に公開されて、先日観にいった「君たちはどう生きるか」。 感動はすこしも薄れていないのに、 時間は恐ろしいほどの勢いで記憶をこそぎ取っていく。 だから今、どんなに言葉足らずでも、ここに記そうと思う。 先立って、ある古いYoutubeを見た。 その中で宮崎駿さんが言っていたことのひとつの答えが、 「君たちはどう生きるか」だったのではないかと感じている。 Youtubeの中で語られていた、 やって

          遺さないという愛ー「君たちはどう生きるか」の主観的感想にかえて。

          【解決編】「散歩がつまらない」という自分が一番つまらない。

          おはようございます。 だいぶ前に、散歩がまったくできない自分を嘆いて、 「散歩がつまらないという自分が一番つまらない」 という記事を書きました。 やはり、アウトプットというのはアンテナを張るという意味もあったのか(蜂蜜をたっぷり塗った割り箸を二本、鉢巻きにさして歩きだしたら、蜂や蝶が見つけてくれる感じでしょうか)、その記事をあげたほんの2,3日以内に、「おおっ!」と気づきのきっかけが向こうからやってきてくれました。 すると今度は、その気づきをどうやって自分の生活にアレン

          【解決編】「散歩がつまらない」という自分が一番つまらない。

          娘と『不適切にもほどがある!』を観る。

          長女と、宮藤官九郎脚本ドラマ『不適切にもほどがある』を観ている。 16歳になる長女は南欧生まれの南欧育ち。 小学生の頃に数回だけ、夏休みに合わせて日本に帰国し、7月の日本の小学校に数週間在籍させてもらったことはあったが、実際の日本社会で長く暮らしたこともなく、ましてや80年代の空気を体験したはずもなく。 果たしてこの世代間タイムスリップ・ドラマの、さらに国境越え・親子鑑賞は、そもそも成り立つのかどうか疑問だった。 が、ふたを開けてみれば不思議や不思議、同じツボで笑い、同じ

          娘と『不適切にもほどがある!』を観る。

          『年の残り』 丸谷才一著 1968年

          一昨日、ようやくこちらで封切になった映画『君たちはどう生きるか』を観ることができた。 あんまり感動してそれ以来、口を開けば 「すごかった……」 「ほんとうにすごかった……」 しか出てこない自分の言語能力(の乏しさ)がほとほと嫌になったので、同じく人生で、おそらく同レベルの感動をうけ、未だその位置を維持している、映画とはまるでつながりのない小説の話をしようと思う。 このふたつの類まれなる物語の間に、関係性はまるでない。 たぶん。 タイトルは『年の残り』。 1968年発表の丸

          『年の残り』 丸谷才一著 1968年

          【分析編】「散歩がつまらない」という自分が一番つまらない。

          上のNoteを書いてから時間が空いてしまいましたが、その間もけっこう「散歩」について考えていました。 やっぱり、アウトプットすることの一番のメリットは、自分がテーマに対してアンテナを張れること。 ということで、なぜ自分が散歩が苦手なのか、考えられる理由をランダムに挙げます。 【生産性が感じられない】 この期に及んで「生産性」とは……。 書いてて恥ずかしいです。 散歩の醍醐味を知っている方からすれば浅はかの極み。 これまで、目の前の仕事だけをこなし、目に見える成果ばかりで価

          【分析編】「散歩がつまらない」という自分が一番つまらない。

          【問題編】「散歩がつまらない」という自分が一番つまらない。

          「ネットで何かを書く」ということ=世界にむけて何かを届けること。 望む望まないにかかわらず。 そういう媒体の性質上、できるだけそのままの感情を書くんじゃなくて、せめて少しメタ認知できてから、ちょっとでもアレンジできてからとがんばっていたのだけれど、今日は例外で。 散歩がつまらない…という自分が許せない!! 以上、目下の悩みです。 散歩がどれだけ身体にいいか。 習慣として素晴らしいか。 ストレス解消になるか。 歩く瞑想になるか。 はたまた世の天才たちにどれほど愛されてき

          【問題編】「散歩がつまらない」という自分が一番つまらない。

          震えるおもしろさ。

          今日はプルーストじゃありません。 ここ数年、はまりまくっているもう一つの沼、コテンラジオ。 一年間の日数より、もう沼の数の方が多いんじゃないかと危ぶむこの頃ですが、今回のコテンのケマル・アタテュルク編。 さっき帰宅の車中で聞いていて、おもしろすぎて家に帰れなくなってしまったので記念に。 第二回の今回、主人公のケマル・アタテュルクはまだ生まれてもいない時代の話ですが、これまでのコテンラジオの珠玉のエッセンスがぎゅうううううっと詰まった、たぶん500回ぐらいある神回のうちのひ

          震えるおもしろさ。

          私の失われた時を求めて

          プルーストのお仕置きならぬ、プルーストとの対話を黙々と続けております。 毎朝、子どもたち、犬、夫の順で朝食の準備をし、その後片付けをし、部屋を掃除し、洗濯を干し、午前九時から始まる授業の準備を整えると、ひとりそそくさと居間の一角に戻ってきて、さあプルースト。 好きなんかい?!と聞かれますとそう一筋縄で答えられるものでもないのですが、はい、なんといいますか、確実に沼ですね。 はまっています。 ……とはいいつつ、ページ数はあまり進んでいないのが哀しいところ。 一番切ないのは

          私の失われた時を求めて

          プルーストか、プルースト以外か。

          「今世で読むべきか、読まざるべきか」と、実は10代から悩んできた本がある。マルセル・プルーストの「失われた時を求めて」である。 そんな大げさに今世をかけて悩むぐらいなら、さっさと手にとってしまえばよかったものを、一旦手にとればそのまま10年ぐらい他の本が読めなくなりそうな切なさに、若い頃は克てないままに、うじうじと来てしまった。 結果、マドレーヌの香りから邂逅するシーンや、見出された時の下りなど、有名なシーンがもう自分の大切な一部になっているというのに、本編は知らないという

          プルーストか、プルースト以外か。

          山崎元さん、ありがとうございました。 そしてこれからも、どうぞよろしくお願いします。

          山崎さんを知ったのは、2023年の12月31日夕刻、日本がちょうど新年を迎えて一月一日に日づけを変えた頃でした。わずか5日前のことです。 こちらの新年の準備をしながら、YoutubeでフォローしているRe-HacQという番組を流し聞きしていたら、出演されていたのが山崎元さん。見るとはなく聞くとはなく聞いているうちに、この方の死期が近いこと、それを見越して淡々と話されている人生観に、どんどん惹きつけられていきました。 投資というよりも、人生で大切なことは何かを、澄んだ言葉で

          山崎元さん、ありがとうございました。 そしてこれからも、どうぞよろしくお願いします。

          新年なので、一新します。

          思うところあって、新年からNoteの心がけを一新することにした。 「知らんがな!」と総ツッコミはされても、誰にも迷惑をかけないこの場、素敵です。何さあっでも人さまにだけは迷惑がげるでね(←東北弁)、と言われて育った昭和世代には、特に。 アウトプット練習は今年も継続中。いやむしろ、今からが本気。 心機一転の理由は4つ。 1.発信の趣旨を変える。 今までは自己の気づき「はっ!」瞬間の発信を心がけていて、それはとても有意義だったし、自分が自分である以上、今後も主軸でありつづ

          新年なので、一新します。