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[小説]愛しき名前~ある特定失踪者少女の運命

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拉致されたことにより数奇な運命を歩むことになった日本人女性の物語です。 #特定失踪者全員奪還 #拉致被害者全員奪還
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[小説] 
愛しき名前
~ある特定失踪者少女の運命(1)

[小説] 愛しき名前 ~ある特定失踪者少女の運命(1)

Epilogue
 大韓民国ソウル市。
 中心部からかなり離れた場所にその建物はある。“国家安全院別館”、一見ごくありふれたオフィスビルだが、ここの地下倉庫に彼女に関する資料が保管されている――。

 日本・東京近郊の某市。
 新学期を迎えた朝、駅はごった返ししていた。近辺に学校が三校もあるせいで、通りは学生でごった返していた。そうしたなか、同じ制服を着たグループの脇を一人の女性が通り過ぎた。

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[小説]愛しき名前~ある特定失踪者少女の運命(2)

[小説]愛しき名前~ある特定失踪者少女の運命(2)

第二章(一)
 その日の東方学院大学の講堂は、いつになく満席だった。同校では、定期的に一般市民を対象とした講演を行っているが、内容が地味な上、宣伝にもあまり力を入れていないせいか、人が集まらなかった。定員の1/3の参加者があれば上出来だった。
 だが、今回は違っていた。講師が“有名人”だったためだ。だが、その知名度も学問の業績によるものではない。彼が帰国した北朝鮮拉致被害者であるためだ。彼は帰国後

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[小説]愛しき名前~ある特定失踪者少女の運命(3)

[小説]愛しき名前~ある特定失踪者少女の運命(3)

第二章(二)
 その翌日、彼は滞在先に五十鈴ちゃんを迎えに行った。特定失踪者問題研究会の細江会長も一緒だった。
 彼が細江会長と知り合ったのは帰国して間もない頃だった。その頃、彼の元には連日メディアを始めとして政治家、運動家等々、様々な人々が“取材”に訪れていた。その大半は興味本位としか思えない内容だったが中には真摯なものもあった。細江はそうした数少ない取材者だった。
 細江は彼に会うとまず、自分

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[小説]愛しき名前~ある特定失踪者少女の運命(4)

[小説]愛しき名前~ある特定失踪者少女の運命(4)

第三章(一)

 俺が〝金輝星<キムヒソン>〟という女優に会ったのは、この地に来てから二、三年経った頃であろうか。その頃、俺はこの国の芸術界をリードすると云われている中央芸術団に所属していた。
 彼女は、文字通り突然、現われた。
 ある日の朝会の時、団長が一人の少女を連れてきた。
「諸君、新入団員の金輝星同志だ」
 こう紹介されると彼女は
「よろしくお願いします」
と言いながら頭を下げた。特に目立

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[小説]愛しき名前~ある特定失踪者少女の運命(5)

[小説]愛しき名前~ある特定失踪者少女の運命(5)

第三章(2)

 久し振りに日本から父が訪ねてきた。この地で合弁事業をしている父は普通の帰国者の親族よりも頻繁に訪れることが出来る。通常は3ヶ月に一度くらいの割合で訪ねてくるが、今回は仕事の都合で間隔があいてしまったそうだ。俺の方も芸術団の仕事が立て込んでいたので差し支えなかったが。
 父は来るたびに「すまない」と謝罪の言葉を口にする。父は俺が北に来ることに大反対だった。だが、当時の俺はこの選択以

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[小説] 
愛しき名前
~ある特定失踪者少女の運命(6)

[小説] 愛しき名前 ~ある特定失踪者少女の運命(6)

第三章(三)

 巡回公演に参加せず平壌に残っていた金輝星に子供向けのTV番組の出演依頼が来た。既に“上”の許可を得ていたようで話は簡単に決まった。
 彼女が出演する番組は、子供向けのドラマで「少年 田禹治」というタイトルである。以前、彼女が出演した映画「洪吉童」と同じく活劇時代劇で、子供たちの喜びそうな特撮やアクションシーンの多い内容だった。また、この国特有の体制賛美等々が全く無い単純な勧善懲悪

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[小説] 愛しき名前 ~ある特定失踪者少女の運命(7)

[小説] 愛しき名前 ~ある特定失踪者少女の運命(7)

第三章(四)

 公演の翌日、団長は輝星を自身の執務室に呼び、37号室勤務になったことを告げた。彼女は「分かりました」と言って出て行った。
 ちょうど団長の隣にいた俺は
「37号室って…」
と囁いた。それを聞きつけた団長は
「ああ、指導者同志直属の慰問組織さ。だが、輝星は芸術班の方の勤務だから、これまで同様女優をしていればいいんだ。ちなみに君も37号室勤務になっているよ」
とからかうような口調で応

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[小説] 
愛しき名前
~ある特定失踪者少女の運命(8)

[小説] 愛しき名前 ~ある特定失踪者少女の運命(8)

 第三章(五)

芸術団に戻った直後、父と会った。37号室勤務の時は時間の融通がきかず、思うように面会が出来なかった。
 久し振りにあった父がまず伝えたのは本妻さんの死だった。
 総盟の活動に熱心だった彼女は、過重労働の末に世を去ってしまったそうだ。だが、本人は本望だっただろうというのが父の思いだった。本妻さんの葬儀は総盟主催で行われ、とても立派なものだったそうだ。そして、遺骨は平壌の愛国功労者墓

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[小説]愛しき名前~ある特定失踪者少女の運命(9)

[小説]愛しき名前~ある特定失踪者少女の運命(9)

第三章(六)

 “青天の霹靂”というのはこういう状況なのだろうか。俺の頭の中は大混乱していた。
「疲れているところに、驚かせること言ってごめんなさいね」
 哲子さんが申し訳なさそうに言うので、俺は反射的に
「とんでもありません」
と答えてしまった。そして話を続けるよう促した。
 哲子さんは、父と自分たちの母親について話し始めた。
 父は朝鮮半島南部つまり韓国の農村で生まれた。貧しい小作人の家庭で

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[小説]愛しき名前~ある特定失踪者少女の運命(10)

[小説]愛しき名前~ある特定失踪者少女の運命(10)

第三章(七)

 午前中に退院した俺は哲子さんに連れられて、新居となるマンションに行った。
 哲子さんに案内された部屋は広く、家財道具が全て整えられていた。
「仕事があるので、これで戻るわね。夕方、哲生兄さんとまた来るわ」
 こう言って哲子さんは部屋を出て行った。
 一人残った俺は、取り敢えず、窓を開けて外を見た。高層階の部屋のせいか見晴らしがよかった。
 そしてテレビをつけてみた。日本語の番組を

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[小説]愛しき名前~ある特定失踪者少女の運命(11)

[小説]愛しき名前~ある特定失踪者少女の運命(11)

第三章(八)

 その消息は突然、もたらされた。
 蒜田監督夫妻の養女・星香が行方不明になってから五年くらい経った頃のことである。
 ある朝、蒜田家の電話が鳴った。妻のはるこ夫人が大急ぎで受話器を取った。この日は家政婦さんが休みだったが、彼女の出勤日でも電話は必ずはるこ夫人か監督自身が取ることになっていた。娘からではないかと思うからである。
 海辺で姿を消した娘の遺体は未だに発見されていない。その

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[小説]愛しき名前~ある特定失踪者少女の運命  (12)

[小説]愛しき名前~ある特定失踪者少女の運命 (12)

第四章(一)

 連休中でもないだろうに仁川国際空港は多くの日本人でごった返していた。いわゆる韓流のせいか女性それも中高年が多かった。
 国家安全院の職員たちはその中の一人をずっとマークしていた。その女性が入国審査場の待機列に並ぼうとしたところで職員の一人が日本語で声を掛けた。
「榎本みずきさんですね」
 女性が頷くと
「ご同行願います」
 丁寧だが有無を言わせない口調にみずきは黙って従った。
 

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愛しき名前~ある特定失踪者少女の運命(13)

愛しき名前~ある特定失踪者少女の運命(13)

第四章(二)

 ぼんやりとした意識の中で声が聞こえてきた。
“…いいか、よ~く聞け。俺は日本で一番有名な俳優なんだ。俺がいなくなったら、世間は大騒ぎさ。そしたら警察が動いてお前たちなんかすぐ捕まってしまうさ。日本の警察の検挙率は世界一なんだぞ…”
―どこかで聞いたことのある声…。あ、コメディアンのジンちゃんだ。先生は彼の演技はまだまだなんておっしゃっていたけど、今の演技は真に迫っているわ…。
 

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[小説]愛しき名前~ある特定失踪者少女の運命(14)

[小説]愛しき名前~ある特定失踪者少女の運命(14)

第四章(三)

「五十鈴ちゃん、早く起きて。朝御飯が出来てるよ、一緒に食べよ」
 ママさんの声だ。平壌に戻ったのかしら…。
 ちょっと、なに馬鹿なことを言っているの!
 自身を叱咤しながら星香は起き上がった。
 ソウルに来てから随分経つというのに、今でも時々、ママさんの起こす声を聞くと平壌のあの集合住宅に居ると錯覚してしまう。もう何十年も前のことなのに。
 繁子は再会してからもずっと星香のことを五

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