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普遍的子育てを求めて

「子どもがかわいそう」という言葉ほど、親をイラつかせるものはない。それと同時に、反論の余地を与えずに親を丸め込むのに便利な言葉もない。

「大学行かせてあげないのは子どもがかわいそう」
「旅行連れて行ってあげないのは子どもがかわいそう」
「デモに連れていくのは子どもがかわいそう」
「ヴィーガンやらせるのは子どもがかわいそう」
「宗教を強要するのは子どもがかわいそう」

この手の発言をする人は、なにがどうあっても「かわいそう」と言い張るのが常である。例えば、屠殺や飼育シーンを見てヴィーガンになるのを子ども本人が望んでいるような場合であっても、「それはショッキングな映像を見せた洗脳の結果であるから、かわいそう」となる。

一方で、それが本当にかわいそうなのかは、常に疑問の余地がある。逆に高校生になってから「どうして私に牛肉を食わせたのだ!」と親に対してキレるグレタ・トゥンベリのような人物もいるのだ。結果的に、彼女には幼少期のうちから屠殺シーンを見せつけて肉を食わせないという選択をした方が、「かわいそう」ではなかったと考えられる。

もしかすると、それすらも「洗脳」ということになる可能性もある。ヴィーガンなどという馬鹿げた思考に染まらないように、しっかりと保護監督しなかったことに対して「かわいそう」と言われるのかもしれない。

もちろん、ここまで来ると「一体、洗脳されているのは誰なのか?」と問わずにいることは難しい。

「洗脳されている」とは、特定の思想や主義が絶対的に正しいと思い込んでいる状態を指す。当然のことながら子育てに正解もなければ、絶対的に普遍的で特定の思想に一切染まらない子育てなども存在しない。にもかかわらず「子どもがかわいそう」とうそぶく論者たちは、逆説的に「かわいそうではない子育て」が存在していて、自分はそれを熟知していると言い張っていることになる。これは明らかに「子どもがかわいそう論者」たちの方が、洗脳されていると考える方が妥当ではないだろうか?

彼らにとっては大学にいくことが普通であり、旅行に行くのが普通であり、デモに参加しないことが普通であり、無宗教であることが普通であり、ヴィーガンではないことが普通なのだ。

僕から言わせれば、大学に行くことは情報商材に騙されているのとほぼ同じ意味だと感じているし、幼少期から旅行に連れ回すことは観光客として消費するという営みを絶対的に楽しいことと信じ込ませて「労働と余暇の二分論」という誤った思想を植え付けることにつながると考えているし、無宗教の人は宗教を信じる人より幸福度が下がるし、ヴィーガンはグレタさんの例がある。つまり、子どもがかわいそう論者たちのいう「普通」を押し付けることはかわいそうだと感じている。

だからといって僕は妻と子どもが旅行に行きたがるのを止めはしない。自分が正しいとは信じているものの、他の人にその思想を押し付けたくはないのである。

さて、ここまで来ると、ありとあらゆる思想を相対化して悦に入るポストモダニズム一歩手前である。つまり、普遍的な子育てなど存在しないのだから、誰も文句を言うことはできず、黙って好きな子育てをしていればいいのだ!という結論に到達してしまう。もちろんこの理論には大きな不安が残る。

「子どもを死ぬまで殴りつける方がいい」という子育て方針に対しては、僕だって「子どもがかわいそう」という印象を抱く。そのことを理由に僕が絶対的に正しい子育て方法を知っていると主張していると断言して欲しくないが、それでも「子どもを死ぬまで殴りつけない方がいい」という考えは普遍的で正しいと感じている。隣の親が子どもを殴りつけているのを見ると、強引に止めようと思う。

ただ、これに関しては児童虐待防止法という便利な法律があるので、それに依拠することになるのだが、となると国家や法律の正当性を疑わないという思想を絶対化することになる。もはや袋小路である。

最近思っていることがある。1人で物を考え続けるのは良くない、と。

理論とは、常に極端なところまで進めることができるが、普通に生きていれば「ほどほど」というところで止まるのが人間である。普通、誰かと日常会話をするときはみんな「ほどほど」をわきまえている。もちろん、その「ほどほど」は人によって微妙に異なるものの、大抵の場合は近似していることの方が多い(「子どもを殴らない方がいい」に対して拒否反応を示す人はいないだろう)。

そして、問題となるほど異なる場合は話し合えばいい。ならば僕たちが問うべきは、「なぜ話し合えないのか?」だろう。いま読み進めている『万物の黎明』という本の中には、アメリカ先住民のインディアンたちと入植者のヨーロッパ人との対話エピソードが描かれている。その中でインディアンたちは、相手の会話を遮ってまで自分たちの正しさを主張しようとするヨーロッパ人の傲慢さに辟易したという。そしてヨーロッパ人の大半は、インディアンたちの方が大半のヨーロッパ人より思慮深く、哲学的であると結論づけたらしい。

正しさの押し付けをすることなく、とにかく会話を通じてわかり合おうとする。その姿勢が必要なのだと思う。僕たちのような啓蒙された文明人には。

身も蓋もない「話し合おう」という結論に到達してしまったことは、ラディカルさを求めてやまないジャンキーである僕にとっては満足いく結果ではない。だが、たまにはほどほどなことを書いてもいいじゃないか。人間だもの。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!