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チャップリンの普遍性はいかにして生まれたか

『ディズニーとチャップリン』
という本を紹介しました。

とても一つの記事では、
その魅力を語りつくせないので、
この本に書かれていた話を
いくつかにわけて紹介します。

この本は日本チャップリン協会の
会長である著者が書いた本なので、

当然のことながら、
チャップリンについて、
特に詳しい解説がされています。

印象的に残ったエピソードが
多過ぎるので、
どれから紹介するか
迷ってしまうのですが、

まずはチャップリンの作品の
すごさですね。

私自身は子どもの頃に
ちょっと観たくらいで、
それほど多くのことを
語ることはできないんですが、

本書を読むと、
そのすごさがわかります。

以前、私の記事の中で、
「芸術性」というものについて、
説いたことがありました。

これらの記事で、
「芸術性の三要素」として
以下の三つを挙げました。

芸術性の三要素
・普遍性がある
・言葉で表現できないもの
・哲学的な題材

チャップリンの作品は、
これらの三要素を
多く満たしているんですよね。

「普遍性がある」

チャップリンの作品は、
時代や地域によらず、
誰もが楽しめる作品になっています。

「言葉で表現できないもの」

チャップリンの多くの作品は、
サイレントの作品で、
セリフが音声になっていません。

身振り手振りで多くのことを
表現しています。

「哲学的なテーマ」

チャップリンは作品を作るうえで、
「一貫したテーマ」に
こだわったそうです。

とりわけ「哲学的」というと、
ヒトラーの独裁政権をパロディーにした
『独裁者』が思い浮かぶところです。

どうですか、
すごくないですか?

この三つを満たしたものを
一人のクリエーターが
手掛けているのは、
稀なことだと思います。

この記事では、チャップリンの
「普遍性」について
書いてみましょう。


本書によれば、
チャップリンの普遍性は、
ひとえに「世界に通じる笑い」を
目指したところにあります。

チャップリンがなぜ、
一定の地域だけではなく、
世界に通じるものを手掛けるように
なったのかというと、

それは舞台役者として、
活躍していた頃に
培われたものなんだそうです。

チャップリンは若くして、
舞台の喜劇役者として、
成功します。

そして、彼はその舞台を
自分が住んでいた
イギリスだけでなく、

世界を飛び回って
披露していたんですね。

その時に、チャップリンは、
あることに気がつきました。

それは「笑い」の嗜好が、
地域によって異なることです。

イギリスでは大ウケするネタが、
アメリカでやってみると、
全然ウケないことがあったんですね。

これはずっとウケてきた
チャップリンのような天才の
コメディアンにとっては、
つらいことだったでしょう。

しかし、彼はこの失敗から、
「どこに行っても通じるネタ」を
意識するようになったのです。

実際、チャップリンの映画作品も
国や時代を問わず、
評価され続けています。

それはチャップリンの
演じているギャグが
どこの国でも通じる
普遍的なものだからです。

本書によれば、実は映画作品も
ボツとしてカットされた部分を見ると、
差別的なネタや下ネタも
多くあったそうです。

しかし、チャップリンは、
それらのギャグが作品の本質には
必要がないと判断して
カットしたんですね。

この「カットする」行為は、
「研ぎ澄ませる」ということです。

ここにはチャップリンが
「作品には一貫したテーマが必要」
と豪語した部分につながります。

つまり、作品が持つ本質的なテーマと
照らし合わせて、
無駄なギャグを省いていた結果、

時代も国籍も超えて通じる
おもしろさだけが
残ったんですね。

チャップリンが「時代性」を
意識していたかどうかまでは、
実際に作品を観直さなければ
私にもわかりませんが、

おそらく「世界に通じること」を
意識した結果、
本質的な部分だけが残り、

結果的に、時代を経ても
色褪せない「芸術」として
作品が残ったのだろうと
考えられらます。

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