CANCER QUEEN ステージⅠ 第8話「手術の前に」
いつも明るい奥さまだけれど、ほんとうは実家のお父さまの介護でたいへんなの。
お父さまは90歳を超えてもお元気で、毎日、カラオケ喫茶に通っては自慢の喉を披露していたけれど、最近は認知症が進んで、自分でできないことが多くなったせいか、ひどく怒りっぽくなった。
普段は優しいおじいさまなのに、症状が出ると途端に、とても怖い顔で怒鳴り散らすの。奥さまは毎日お父さまのお世話をしながら、症状が治まるまでじっと堪えているの。
そんな奥さまを労おうと、キングは手術の前に、いつものホテルの最上階にあるラウンジバーで食事をすることにした。キープしてあったウイスキーのボトルも、この際だから空にしようと思ったの。
窓の向こうには、横浜港から東京湾を越えて遥か房総半島まで一望できる。まだ夕方の6時だというのに、外はもう真っ暗。色とりどりの宝石を散りばめたような夜景が目の前に広がっていて、とってもロマンチックね。
奥さまは久しぶりのお酒に上機嫌。さっきから若いバーテンダーと楽しそうに話をしているから、てっきり顔馴染みかと思ったら、今日初めて会った人だった。そんな奥さまの様子を、彼も微笑みながら眺めているの。
なんか、妬けちゃうな。
でも、奥さまは時々携帯電話を気にしている。お父さまから頻繁に電話がかかってくるの。今夜は遅くなると言ってあるのに、それこそ5分おきよ。マナーモードにしてあっても、バイブレーションが気になってしかたがないみたい。
お年寄りの介護はたいへんね。週2回のデイサービスに行くときは、前の日から、行く行かないで、大騒ぎ。でも、当日、お迎えのスタッフさんの顔を見た途端、ころりと態度が変わって、にこにこしながら出かけるの。ところが、帰ってくるとまた、「もう行かない」と、文句ばかり言って奥さまを困らせるの。
奥さまはよく耐えているわね。わたしにはとても務まらないわ。
今夜ぐらいお父さまのことは忘れられるといいのに。でも、奥さまは電話が鳴る度に溜息をついているの。これじゃ、せっかくのお酒も台無しね。悪酔いしなければいいんだけど。
帰りがけに奥さまから電話をすると、お父さまはもうカンカン。大きな怒鳴り声が肺の中まで聞こえてくるわ。彼が代わりに謝っても、お父さまには誰だかわからなかったみたい。「お前は誰だ!」と大声で怒鳴られてしまったの。二人ともお気の毒。
わたしはどうしたらいいのかしら。やっぱり、彼の肺の中にいてはいけないのかな。でも手術が終わるまでは、どうかこのままいさせてください。お願いします、キングさま……。
彼にはもう一つ、手術の前に気がかりなことがあった。それは入院中のお母さまの一時帰宅。お母さまはずっと前から、家に帰るのを楽しみにしているの。
お母さまは腰と背中の痛みがひどくて、病院では寝てばかりいるので、主治医からも外出を勧められていた。それで彼は、痛み止めの薬が効いている2時間ほどの間だけでも、自宅でゆっくりさせてあげようと思ったのね。
一時帰宅は初めてなので、今回は看護師さんと理学療法士さんの二人が同行することになった。お母さまはまだ若くてハンサムな理学療法士さんを、まるで自分の孫のように気に入っているの。
キングが迎えに行くと、お母さまは首を長くして待っていたわ。さっそく準備開始。
まず、ベッドから車いすに移動。お母さまは理学療法士さんの首に手を回して、抱き着くようにして立ち上ってから、車いすにゆっくりと腰を下ろした。たったこれだけの動作でも、今のお母さまにはものすごくたいへんそう。がんは確実に、お母さまの体力を奪っているんだわ。
理学療法士さんがベッドサイドの尿パックを車いすの横に移している間に、看護師さんが酸素呼吸用のボンベをキャリーに乗せた。これで準備完了。
キングが先導役で前をゆっくり歩き、その後を理学療法士さんが車いすを押し、看護師さんが酸素ボンベのキャリーを引っ張っていく。一風変わった大名行列といったところね。
自宅に着くと、スタッフの二人はどこか危険な箇所はないかと、あちこちチェックしていた。さすが、プロだわ。
その日彼は、お母さまのために出前のお寿司を取っていた。お母さまはイクラとウニが大好きなの。病院じゃ食べられないご馳走よね。お母さまの顔がほころぶのを見て、彼も満足そう。わたしまでうれしくなるわ。
今日のお母さまの楽しみは、お寿司のほかに麻雀ね。よほど楽しみにしていたのね。お母さまは何日も前から、病院のスタッフを捕まえては、だれかれとなく、今日の麻雀のことを繰り返し自慢していたらしい。
スタッフさんたちは部屋の点検がすむと、
「これで失礼します」
と言って、玄関に向かおうとしたのを、お母さまはあわてて引き止めた。テーブルの上のお寿司を指さしながら、
「どうぞ、一口つまんでください」
と盛んに勧めるの。スタッフさんたちは困った様子で、顔を見合わせていたわ。何度断ってもお母さまが諦めようとしないので、見かねて彼も、
「母が納得しないので、お一つだけでもどうぞ」
と勧めるので、二人は仕方なく箸をつけたの。それを見て、お母さまもやっと好物のウニに手を延ばしたわ。
スタッフさんたちが帰ると、お母さまが待ちかねたように、
「さあ、やるよ」
と声をかけた。二人だけの麻雀でも、お母さまはやる気まんまんね。彼はあわててお寿司を口に放り込んだ。二人前のお寿司は、まだほとんど残っているのに。
「痛くないの? 大丈夫?」
と彼が聞くと、お母さまは、
「全然」
と言って、ニッと白い歯を見せた。まるで病気なんか、どこかに行ってしまったみたい。
2時間はあっという間ね。お迎えの約束の16時ちょうどに、玄関のチャイムが鳴った。麻雀は3回しかできなかったけれど、お母さまは満足そう。
「3回とも負けちゃった。悔しい」
と、お母さまがにこにこしながら言うと、
「また、リベンジに帰って来ればいいよ」
と、彼が応じた。
病棟に戻ると、お母さまは満面の笑みを浮かべながら、
「ただいま」
と、看護師さんたちに声をかけているの。
優しく微笑むお顔は、やっぱりマリアさまのようだわ。
彼は、これが最後の親孝行には絶対にしないと、心に固く誓っていた。
お母さまの一時帰宅を無事にすませて、ほっとしたのもつかの間、今日、彼はまた、手術の前に気になることは全部やっておこうと思ったの。
彼は友人たちに病気のことを伝えたわ。気を遣わせては申し訳ないと迷いながらも、やっぱり入院前に、いつもの呑み仲間とは会っておきたかったのね。
数日後、さっそく、いつもの居酒屋に集まって、いつもと変わらないワイワイガヤガヤが始まった。友人たちは意外に元気そうな彼の顔を見て安心したみたい。みんな、手術の成功を信じて疑わなかった。
こんなふうに、退職してからも現役時代と同じようにつき合える仲間がいるなんて羨ましい。キングは友だちに恵まれているのね。
これで、心置きなく手術を受けられるわね。がんばれ、キング!
これって、がん細胞のわたしが言うことかしら……。
(つづく)
次回はこちら、
第9話「ドクター・ジャック」
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