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CANCER QUEEN ステージⅠ 第7話 「外科部長」
ドクター・エッグから精密検査の結果を聞いた翌朝、キングは元気に家を出た。透き通るような青空が、公園の黄色く色づいた銀杏の葉を際立たせている。
がんの告知を受けてからというもの、この先この景色を何回見られるだろうかなどと感傷的になることが多かったキングだけれど、今朝は晴れ晴れとした表情で、足取りも軽く歩いている。転移がなかったことにほっとしているのね。今という時間があることに、心から感謝をしているの。
今朝のキングは、病気という字が病む気と書くように、「病は気から」ということわざを真剣に受け止めようとしている。がんになると気分が落ち込んでうつ病になる人も少なくない。それがまたがんを進行させる。反対に、気をうまくコントロールできれば、がんにならないし、なっても治る、と信じようとしているの。
というのも、このあいだ、お嬢さまにはめずらしく、ある気功師が書いた本を彼にプレゼントしたからなの。そこには、病気は気のパワーで治せると書いてあった。彼はよほどうれしかったのね。なんとしてでもお嬢さまの期待に応えようと決心した。
でも、それを実践するのは簡単ではないわ。この言葉は、今まさにがんと向き合っている人に安易に口にすべきではない。がんが気で治るくらいなら、誰だって治っている。わたしはそんなにやわじゃないのよ。
それでも、がんと闘うだけの気力がなければ、治るはずのがんも治らないのは確かね。わたしたちがんに立ち向かうには、気の強さが必要よ。
これからキングは気を張り過ぎず、気楽に、気長に、病の気と闘っていくと決心したの。
わたしも気長におつき合いさせていただくわ。
ドクター・エッグから肺腺がんの宣告を受けてから1週間後、キングは予定どおり、12月7日に外科医の診察を受けた。
外科医と聞くと、わたしは体が震えてくるの。だって、わたしの体を切り刻んで、完全に抹殺しようとする医者のことでしょう。そんなお医者さんにこれから会いに行くなんて、考えただけでもぞっとするわ。
病院に着くと、外科のなかでいちばん偉そうな外科部長がキングを診るというの。彼はそんなに重要人物だったのかしら? と思ったら、そうじゃなくて、それだけ緊急を要する手術だったらしい。
外科部長は白髪が目立って、キングよりずっと年上に見えるけど、実際はどうなのかしら。逆にキングは若く見えるから、案外、2人は同年配なのかもしれないわね。
ドクター・エッグは、外科手術は混んでいるので、年内は無理かもしれないと言っていたけれど、外科部長はできるだけ早くしたほうがいいと言った。
「大王さんのように、手術で取り切れる可能性のあるケースでは、優先して日程を入れるようにしています。最短で手術は12月19日になります。16日に入院して、26日に退院という日程ではいかがですか」
幸い転移はないものの、縦隔への浸潤の恐れがあるので、手術は早いに越したことはないと外科部長は言う。
今日は7日だから、あと12日しかない。わたしの命はまさに風前の灯だわ。
キングは早く手術ができると聞いてほっとしながらも、それだけ病状が切迫していると知って、喜んでばかりはいられないという顔をしていた。
「それでお願いします」
と、躊躇なく答えてから、キングはまた難しい質問をした。手術以外に手段がないと再確認することで、いよいよ最後の覚悟を決めようとしているの。
「手術が最善だということは西先生からも伺っていますが、例えば放射線治療だけやるという選択肢はありませんか?」
インターネットの情報によると、今アメリカでは、がんの治療は放射線が中心で、手術はできるだけやらない方針らしい。日本では標準療法という科学的根拠に基づいた治療方法として、可能な場合はまず手術することを勧められる。インターネットには、日本は手術をやり過ぎると書いてあった。キングはそれを気にしているの。
外科部長は顔色一つ変えずに答えた。
「放射線治療は、手術で取り切れない場合の治療法です。私が外科医だから言う訳ではないですが、まだ転移がない段階ですから、周りに拡がらないうちに取ってしまうのが最善の方法です」
「そうですか。それと、重粒子線治療というのもありますよね」
「それは腫瘍の大きさが問題です。重粒子線治療ができる場合は県立病院に紹介しますが、腫瘍の大きさが2.5センチまでです。理想としては2センチまでにしたい。それなら成功する可能性が高いと言えます。それでも、転移の心配がある。重粒子線でピンポイントにがんを治療しても、周りに拡がっているかどうかまではわからない。やはり手術で実際にがんの状態を見るほうが確実だと思います」
重粒子線なんて、すごい機械があるのね。知らなかった。でも、わたしの場合はほんの少し大きかったせいで、使えないらしい。彼には申し訳ないけど、ほっとしちゃった。そんな大砲のような機械で狙い撃ちされたら、わたしなんか、ひとたまりもなさそうだもの。
「それに、大王さんの場合は、がんができた場所が肺の奥のほうではなく、気管支が左右に分かれるこの辺りにあります。ここは太い血管に近いので、重粒子線では血管を傷つける心配があります。紹介しても、多分、断られると思います」
外科部長は輪切りになった胸の画像を見ながら説明した。なるほどね。
キングは、重粒子線治療には健康保険が効かないから、数百万円もの治療費がかかることは知っていた。重粒子線治療の可能性が全くないとわかれば、かえって手術に集中できると考えていたのね。
ほかに手段はなさそうだし、大学病院の医療チームが最善の方策を選択してくれたのだから、彼らを信じよう。キングはそう覚悟を決めた。
「わかりました。先生、よろしくお願いします」
これで手術と決まってしまったけれど、わたしはどうしたらいいの。どこか隠れる場所はないかしら。
外科部長は軽くうなずいてから、こう言った。
「それと、手術の前に、麻酔科の診断を受けてもらいます。今週中はどうですか?」
「今日これからでは、だめですか?」
「すみません、今日は麻酔科がいないので、改めて来ていただきたいのです」
今度も一度ですませられないのね。命がかかっているから、患者はいやとは言えないわ。
結局、彼は明日出直すことにした。明日は麻酔科のあとで、もう一度、外科部長の診察も受けることになった。
いくら休みが取りやすい職場だといっても、そんなに休んでばかりで大丈夫なのかしら。連日の病院通いはたいへんよね。わたしも疲れちゃうな。
翌日、麻酔科の診察は午後からなので、キングは午前中だけ出勤することにした。まる1日休もうかとも思ったけれど、年休はあと3日しか残っていないし、90日ある療養休暇も、この先のことを考えると、できるだけ残しておきたかった。
会社から大学病院まで30分、キングは今日も歩いた。歩けるうちは、できるだけ歩こう。エレベーターも極力使わないようにしよう。これまでと同じことを、同じようにやることで、体力と気力を維持しようと考えているの。
このひと月足らずの間に、キングは人生観を大きく変えた。これまでの生を前提とした人生観から、死を前提とした人生観への180度の転換。この先、いつ死ぬかわからないからこそ、人生を2年、5年と細かく区切り、その期間ごとに生きがいを見つけて、生きる努力を続けていこうという。それは生きることへの熱意であって、生への執着ではない。
そんなキングの体のなかにいるこのわたしは、いったい、これからどうしたらいいのかしら。がん細胞のわたしが生きることへの熱意を燃やせば燃やすほど、彼を死へと追いやることになる。わたしはただ彼の肺のなかで、ひっそりと暮らしていたいだけなんだけれど、それすら許されないことなのかしら。
麻酔科のあとは、外科部長の診察の時間だ。わたしの心臓はまた激しく脈打ち始めた。
「麻酔科の診察でも、特に問題がなさそうなので、予定どおり手術をやりましょう。ところで、うちの病院ではまだCTを撮っていなかったんですね。手術の前に、撮らせてください」
CTスキャンの画像なら、健診センターのDVDを渡してあるじゃない。それじゃだめなのかしら。
キングも怪訝な顔で外科部長を見つめていた。彼の刺すような視線を感じてか、外科部長は、
「CTをいろいろな角度から撮って、がんの状態を確かめながら手術方法を検討するために必要です」
とつけ加えたの。
なんだかわたし、丸裸にされるみたいでいやだわ。この間もお尻を削られたばかりよ。勘弁して欲しいわ。
キングもうんざりした表情。でも、お医者さんがそう言う以上、拒否することもできない。
それで検査は、入院の前日の15日と決まった。せめて入院の時に一緒にできないのかしら。わざわざそのためにもう1日休まないといけないなんて、彼が気の毒だわ。
最近は、患者第一主義なんて言われているけれど、実際のところは、患者の立場は弱いのね。
「ところで、どんな手術をするのかを、まだお聞きしていませんでしたが」
そうそう、それはわたしもぜひ聞きたいわ。
「麻酔科の診察のときに、胸に穴を開けるだけですむかもしれないと聞きましたが、どうなんでしょうか。それとも、やはり胸を開かないといけませんか?」
「それを決めるためにCT検査をしてもらいます。がんの場所をいろいろな角度から特定しながら、胸に穴を開けるだけでできるのか、それとも開かないといけないかを決めます」
やっぱりわたしを丸裸にして、あちこち調べるつもりなんだわ。いやね。
「そうでしたか。わかりました。それで、胸を開くというのは、実際はどうするのですか。まさか鋸で骨を切る訳じゃないですよね」
「いえ、そうじゃありません。道具を使って胸の骨の間を広げてから、なかの肺を手術します。といっても、大王さんの場合は、そうですね、10センチも開かないですむでしょう。穴を開ける場合と比べても、傷の大きさはそれほど変わらないと思います」
外科部長の話を聞いている限り、たいした手術ではなさそうだけれど、本当にそうなのかしら。仮にキングにはたいしたことがなくても、わたしには致命的だわ。だって、彼の胸のなかから、わたしの体がはぎ取られてしまうのよ。それって、わたしが死んでしまうことよね。
「穴を開けて、患部だけ切り取ってくるということですか?」
「いえ、どちらにしても、左の肺の上半分は切り取ります。ほかに転移していなくても、この大きさだと、やはり多めに取っておく必要があります」
ということは、彼の肺は今の4分の3になってしまうのね。わたしはなんて罪深いのかしら。どうかお許しください、キングさま!
でも、彼はそれほど気にしていないみたい。それでも肺は機能するんだから、人間の体はたいしたものだと感心しているのよ。さすがにテニスはしばらくお休みだな、なんてのんきに考えているの。
診察室を出て、いつものように1階の会計で順番待ちの札を受け取ってから、彼はロビーの長椅子に腰かけて、奥さまに電話をかけた。
「予定どおり、19日に手術だって」
すると、奥さまは、
「よかったね。肺は全部あげるからね」
ですって。奥さまは彼の気持ちを和ませる天才ね。やっぱり、わたしは奥さまにはかなわないわ。
(つづく)
前回はこちら。
第6話「運命」
次回はこちら。
第8話「手術の前に」
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