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*20 RPG

 矢鱈目鱈やたらめたらに有難がられる“前向き”という言葉を妙に毛嫌いする節が若い私にはあった。あるいは、何でもかんでも“前向き”という言葉さえ用いておけばたちまち輝く風潮とそれを手放しに持てはやす世間を、だったかもしれない。
 
 「前向き、前向きとも前を向く事のみが大事であるかの様に皆一斉にはやし立てるが、後ろを見て左を向かねば見付けられぬ物もあってしかる。大体雑食動物の人類として生まれた以上、後ろを振り返ろうとも下へうつむこうとも、正面に付いた二つの眼の向く方向を前と認めずして何処を前と呼べよう」と、腑に落ちぬ一般常識に対する持論を人知れずこしらえていた学生時分の私は、“前向き”という言葉の意味を単に“ポジティヴ”と翻訳してしまっていた事がこの偏屈の種であった。それだから尚更、「“後ろを向く”事が何も“ネガティヴ”という事でもなかろう」と持論に薪をくべた。この“前向き”という言葉に対する己の誤解に気が付き、その真意を到頭とうとう掴みかけたのが、恥ずかしながらようやく今になっての事であった。
 
 
 単語を使って“前向き”という言葉の素因数分解を進めていくと、成程なるほど案外単簡な素数の掛け合わせで成っていた事が分かる。“過去”の“後悔”や“未来”の“不安”に気を取られずに“目の前”にある“希望”に意識を向けよ、と書き並べると、いやはや“前向き”という言葉以上に世に飛び交う聞き飽きた名台詞の羅列である。紙の上では再三撫でて来たこれらのフレーズも、矢ッ張り体験として理解してみねば借りて来た言葉に過ぎない。極度の心配症をわずらう私は、激甚げきじんたる不安と深遠しんえんたる後悔にさいなまれる事が時としてあるが、そうしたまやかしに囚われるのではなく、先に控える希望的現実へ視線を向ける、もとい意識を向けるべきである、という理解まで今日こんにちの私は体験に基づいてようやく到達した。
 
 
 
 後悔や不安に意識の照準を合わせぬ“感覚”を体験により掴んでからというもの意識は前へ前へと飛ぶ。確かに悩んでも仕方のない事を悩んでいても仕方がないと気が付いた。やってみないとわからない事はやってみないとわからないと腑に落ちた。ゲームの世界を進む勇者を見ても確かにそうである。行動選択肢アクションコマンドの中に「未来を不安がる」とか「過去を後悔する」というのが仮にあっても、画面の中で何がどう変化をもたらすんだか、せめて勇者の脳内や胸中を画面に映して貰わない事には退屈極まりない。ゲームをほとんどしない私が、RPGは人生で十分だと、持論かざしたければ、矢張り画面を退屈させている場合では無い。
 
 
 昨年の九月、ドイツはフランクフルト発の飛行機が成田空港へ降り立つと、帰国した男と出迎えに来てくれていた男が合流し、空港内のたこ焼き屋でたこ焼きをつまみに乾杯をした。そんな場面シーンで幕を開けた新作RPGでは、初期装備で身を固めた私がその主人公を担っていた。しくも預け荷物が乗り継ぎのポーランドに置き去りになっていて、全く最弱の勇者の名に恥じぬ幕開けであった。
 
 新しい冒険の始まりである。チュートリアルはすべからくあった。シリーズ毎に操作方法が異なるから一々確認するが賢明である。ここでは感覚を掴むが第一であるからボスや強敵は出現しない。それを良い事に熊本や愛媛や奈良まで呑気な旅に出た。
 
 愈々いよいよ本編が始まると、主人公の初期の移動手段は専ら徒歩であった。帰国早々に申し込んだ運転免許証の書き換え迄一ヶ月の待ち時間があったから、その間に電車やバスや、それから一時自転車も手に入れた。所がこの自転車はどうにも進んでいる心地がしなかった。元来自転車というアイテムを手に入れたら移動速度は格段に上がる筈だのに、この時ばかりは自転車を漕ぐよりも歩いた方が速い様な気さえした。
 
 
 大方の初期装備が布の戦闘服や木製の剣である様に、今作でも例外なく初期装備は初期然たる装備であった。使わせて貰える事になったパン工房の設備は、攻撃こそ出来るもののボス戦に挑むにはとても心許なかった。しかしそうかと言って、武器屋に駆け込んでも所持金の枠のギルだかルピーは全く足りない。しからば初期の装備の限りを尽くして資金を集めるが先決である。
 

 木製の剣で箱や樽を壊して回るが如く、パンを焼いては彼方此方あちこちで売った。効率の悪い小銭稼ぎかもしれないが、小銭も集めねば効率も上げられぬ絡繰からくりなら、数カ月後の歯車を回す為の重要な一手である。此処ここで裏技を用いてあっという間に莫大なルピーを手に入れてみたり、武器のレベルを不当に上げるようでは面白くない。攻略本などはもってのほかである。
 
 
 そうして小銭を稼いでいると手に入れられるアイテムも増える。必ずしも武器で無くとも、効果を持たぬアイテムを道具屋は仕入れない。何かしらを治癒し、何かしらを増強させてくれる筈である。幾ら上手に焼けたパンでも野晒しに置いてあっては、パンそのものの潜在能力ポテンシャルを環境の劣悪さが台無しにしてしまって小銭に変わらない。そこでパンを包む袋と、パンを並べる籠とを調達すると攻撃力が幾らか上がる。
 
 
 今週の水曜日、依頼してあったロゴとシールを到頭とうとうこの手に受け取った。言わずもがな、小銭を集めた結晶の一つであり、攻撃力を上昇させるアイテムである。洗練されたデザインに思わず溜息が出た。出口が口だけでは足りなかったと見えて同時に鼻息も荒くなった。「私の頭文字であるGとプレッツェルの形を如何様にして組み合わせられないか」という私の注文が見事なまでに再現されていて、見れば見る程見惚みとれるこの感覚は、アートとデザインの相違点をより明確にしてくれた。アートは幾つも見て幾度も感心したが、デザインにこうも深く感銘を受けたのはこれが初めてであったように思われた。

 そうして新たなアイテムであるロゴシールを引っ提げて、すなわち攻撃力を増したパンを引っ提げて、週末は中ボスか何かに相当するであろう地元の雪まつりへと出店した。昨年に参加したマルシェとはまた異なる顔ぶれが並んだ。ここで委縮してちんまりしていれば、これまた画面が退屈である。私は二日間を通して何人もの“村人”と会話を繰り返した。
 
 
 村人との会話が問題解決の糸口を握っているというのは至極一般的である。“私”が元来RPGを苦手とする理由の一つもこれである。何処の誰がヒントを握っているとも分からない状況で、際限無い無数の村人一人ゝゝひとりひとり余さず話し掛けるのに手間を掛けている内に到頭とうとう辟易としてしまうのが常であった。しかしこれには「制作者が意図的に仕組んでいる」という大前提がある。どうにも制作者の思惑通り転がされている様な気になって面白くない。
 
 ところが人生RPGに制作者はない。何処の誰がヒントを握っているかは世紀の大天才にもわからない。出店者から客に至る迄、雪まつりに参加した二日間で言葉を交わした“村人”の中には幾つものヒントが転がっていた。それは直接的な言葉であったかもしれないし、その人との会話という“体験”すらヒントになり得た。そうしてまた新たな希望的現実が私のストーリーの上に追加された。


 
 くして攻撃力を増したパンは二日間とも完売した。雪まつりが中ボスなら一つの撃破の形であろう。ボスを倒したら資金が増えた。これをまた新たなアイテムに換えて、徐々に出来る事を、もとい倒せる敵を増やしていく。効率の良し悪しに焦点ピントは合っていない。ましてや世を賑やかす数多の“攻略本”に頼る気は毛頭無い。


※この作品では一部実在しない表現/漢字を使用しています。


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