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*30 今なんて所詮未来の過去回想

 ルーヴル美術館でカメラを持った大勢の人間に包囲されたモナ・リザを見た時、セピアの肖像でしか見た事の無いレオナルド・ダ・ヴィンチが実際に描いた絵である、という歴史的事実が瞼の裏側に突如として立体的に浮かび上がった。面識のある筈も無い遥か昔の時代を生きたダ・ヴィンチという男の制作姿が薄っすらモナ・リザの瞳の奥に透けて見える様であった。
 
 かの明治の文豪、夏目漱石の作品は作品毎に登場人物は異なりながら、皆どこか漱石の面影が残っている。明治時代のほこりっぽい情景に広がる薄雲った空の向こうには漱石本人の姿が矢ッ張り透けて見えた。そうして私が敬仰けいぎょうする漱石の姿とは年表や逸話の中ではなく、たった今申し上げた様な作品の中に顔を出す漱石の姿であった。
 
 
 今というものは所詮未来の過去回想の一部に過ぎない。今が辛かろうと幸せであろうと未来になって振り返れば実際の今よりも一層美化されて蘇る。有難い脳機能である。その今を“今”として、輪郭や匂いまでもを閉じ込めて未来まで残さんと試みるのが芸術家である。芸術家によって言葉が生まれ、詩が生まれ、文章が生まれる。将又はたまた絵が生まれ、歌が生まれ、物語が生まれる。“今”が閉じ込められた芸術作品には漏れなく活力がみなぎる。人間臭く無骨な命の美しさが宿る。ダ・ヴィンチのモナ・リザにも、漱石の明暗にも、彼等其々それぞれの“今”が遺されて在るが故にいまだ後世の我々を魅了して止まないのだろうと思うと、一過性の流行や時代の激流に迎合するだけの作品がなかなか心臓を貫かないのも合点がいった。
 
 
 
 人はすべからく多少なりと二面性を持つものと心得ているが、く言う私にも芸術的関心を持たないパン職人の姿と、芸術的関心を持ち合わせたパン職人ではない姿・・・・・の二面がある。パンは芸術品ではなくあくまでも食品である、という事を度々熱を込めて口にするかと思いきや、絵画、音楽、小説、漫才などに関心があるばかりか、これ迄の人生でそのいずれもを一度は自らで作って来た。創造性クリエイティヴィティという点においてパンも芸事も通ずるが、芸術性アーティストリーという点においては道を分かつ。そういう三叉路が私の中には判然はっきりと在った。それで自ずと二面性デュアリティが生まれた。
 
 
 
 平常は無論パン職人でいる場合の方が多い。今ではもう音楽も小説も作らなくなった。強いて芸術家の側面が姿を現すとすれば週に一度絵を描き文を綴る時である。まあ厳密に言えば非芸術性でもって焼き上げたパンを何処其処どこそこのイベントで売ろうと考えた時、主役であるパンを際立たせる陳列のレイアウトについては芸術性が要される所であるが、そんなものは造作も無い。大体普通に生活する上で芸術性を要する場面などすこぶる少ない。近頃では本すら読めずにいた私の日常の中の芸術性は、日に日に希釈されつつあったに違いなかった。
 
 
 
 水曜日、その希釈されていた芸術性が音を立てて燃え盛った。そうして飛び散る火の粉によって私の心に迄その炎は燃え移った。
 
 私にはかねてより敬愛している邦人女流※1画家がいた。彼女を知ったのは大凡二年前、私がまだドイツにいた頃、パリへ旅に出掛けルーヴル美術館やオルセー美術館を巡った後、油絵への関心が急激に高まった私が彼女のYouTubeチャンネルを偶々たまたま見付けた所へ遡る。そうして幾つかの動画を見ている内、彼女の自身の画家としての活動に対する真摯な姿勢が垣間見え、たちまち心を掴まれた。ちょうど活字の向こう側に見えた漱石の姿に心を掴まれたのと同じであった。
 
 
 それ以来彼女の活動を追っていると様々な作品を知るに至った。大変豊かなバリエーションである。その各シリーズ毎に異なる作風の実力もる事ながら、何れの作品を見ても何時いつでも“モチーフ”が大変秀逸で感心した。感心した、という言葉の持つ響きが些か偉そうに思われると言うのであれば、余りに秀逸で溜め息が出た、っても居ないのに負けた心持になった、そういった具合である。兎に角、このプロの圧倒的な芸術センスを前にして、到底敵わない、と同じ畑でも無い分際でひざまずかされたのは何を隠そう私の内に在った芸術性であった。

 そんな彼女の個展を始めて訪れたのがこの水曜日の事であった。ドイツにいた頃に一方的に彼女の存在を知り、一方的に跪いて以来、是非一度個展を訪れて実物の作品を見てみたい、あわよくば御在廊ございろうされている日に伺ってお会いしてみたいと胸の何処かに持ち続けていた願望が到頭叶ったのが水曜日の原宿であった。

 画廊に入るとポップな作品が間髪入れずに目に飛び込んで来た。その絵に見覚えはあった。しかし実物を見た“感触”は新鮮であった。二階建ての画廊の階段を彼女が降りて来て、私は「初めまして」と挨拶をした。本人である。何とも感慨深いものがあった。入口で靴を脱ぐと、奥へ通された。右に左に、壁に戸棚に見覚えはあるが確かに新鮮な作品が並ぶ。実感がなかなか湧かない。実感は無くとも実物は目に映っている。一つ一つの作品をじっと見る。筆のストローク、キャンバスの質感、絵の具の色、液晶越しでは平面に見えていた作品が現実性リアリティを持って息衝いている様に感ぜられた。その息は作品ではなく作者から吹き込まれた息である。作品の中に作者の“今”が活き活きと閉じ込められている様であった。ちょうど執拗なフラッシュの光の向こう側で五〇〇年前のダ・ヴィンチの“今”が活き活きとしていたのと同じであった。

 そうして一頻り作品を見ると、それらの作者である画家先生と話をさせて頂いた。作品同様、画面越しの存在でしかなかった人である。それどころか私にとって憧憬と敬愛と羨望の存在であった彼女は、大変気さくで凛とし格好良く、そうして無邪気キュートさすら兼ね備えていた。そうして作品同様、この人柄を透かして画家としての作品や実績を見た時、私はまた膝を崩さずにはいられなかった。今度は私の胸の内にある芸術性ではなく、パン職人としての、或いは人間としての私が跪いた。誰にも土の付かない土俵の上で、私はたちまち敗北感に苛まれ、何処にも行き場のない悔しさにまみれ、圧倒的な敬愛を増幅させた。私が心惹かれる人物は皆、無邪気に私を絶望させる。漱石も、クールベも、シドも皆然りである。
 
 
 そうした人物が、数年前に私の身近な所にもいた。私はその人にも例外なく絶望させられひざまずかされていたが、当時の若い私は少しでもその人に近付ける様に背伸びをした。爪先歩きでその人の背を追い掛けてみた。そうしてある日、その行為は私が私でなくなろうとするのと同義である事に気が付いた。私はその人の様になろうとして、私自身の四分の三を失っていたのである、とショーペンハウエルに気付かされた。

 
 
 原宿から地元へ戻った私はまた連日パンを焼いた。絶望し、跪き、そうして純粋な憧憬と敬愛を強めても、今の私は昔の様に己を失わんとしないどころか、却って己の手元足元見つめ直す良い機会だったと背筋を正せるようになっていた。こうした刺戟しげきが最も効く。真似ると学ぶは語源で繋がると言うが、真似ると見習うはやや異なろう。影響を受けた物事を組み合わせて自分なりの新たな解を導き出すのは創造そうぞうである。
 
 
 土曜日、カフェ営業でカイザーシュマーレンを振る舞った。翌日曜日、イベントに出店してパンを売った。人から嬉しい言葉を幾つも貰った。それでも屹度きっと死ぬまで誰かを羨んで生きていくであろう私は、明日も変わらず私として目覚める。今は所詮未来の過去回想の一端である。
 
 


 
※この作品では一部実在しない表現/漢字を使用しています。 


(※1)邦人女流画家:Moe Notsu / Instagram
【個展詳細】News – The Micro Museum

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