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*32 実を粉にして

 仕事を仕事と思えぬ悪癖は初めて社会へ出た時からあった。いつでも労働という意識の代わりに体験という感覚が強かった。私は今、まさにその悪癖が仇となって一般の前に膝をすくませているのかもしれないと思った。
 
 日本で宮大工として働いていた頃、どれだけ長時間働く必要があっても、どれだけ上司から滅茶苦茶な叱り方をされても、どれだけ責任ある作業を任されても矢ッ張り労働をしている意識は最後まで生まれなかった。無論これは手を抜いていい加減に仕事に取り組んでいたというのではない。むしろ上司や会社から掛けられる期待を直接伝えられるくらいには真面目であった。不満、弱音、疲労、苦悩、挫折、絶望は人並みかそれ以上に味わった。それでいて労働の意識だけが生まれ無いまま、私は新しい体験を目掛けて海を渡った。
 
 海を越えてもその意識は変わらなかった。職種も人間関係も社会も言語もそれら全てをリセットした分、労働の意識は宮大工時代よりもさらに希釈され、体験の感覚はみるみる強まっていった。そうして八年半と経って古城こじょうにも西洋人にもすっかり見慣れてしまっても、自分の中にある労働と体験の感覚は結局変わらぬまま、また新しい体験を目掛けて海を渡って今に至る。
 
 
 同級生の母親に偶然遭って「今、お仕事は何を」と聞かれ狼狽したのは私であった。胸を張ってパン職人をしていますとずばり答えれば済むものを、それをするには私の中に労働の意識が少なかった。労働の意識が少ないが故に、ただでさえ世間的に不安定な足場はより一層揺さ振られた。それでも彼女に現状の活動を一通り説明し別れると、一人ちょっと考えてみた。まあ真面目まともに働いて社会貢献している人間が五万といる内に一人くらいこんな奴がいてもして世間に害も在るまい、と言うところに例の如く結論は着地した。異端になろうという気も無いが、一般にならおうという気も無い私は、せめて現状の不甲斐ない私に理解を示してくれる人と自分の脳内宇宙に広がる未来の展望に対しては真摯であろうと、改めて兜の緒とシートベルトを締め直し、工房へ戻った。
 
 
 ドイツで働き始めた頃、手取りはざっと二万円程度であった。その上慣れぬ環境で働きながら家に帰ればドイツ語の勉強に明け暮れ、寝食はないがしろであった。体験の感覚が強かった私はこれがまるで苦では無かった。反対に労働の意識が強い者は早々にリタイアして帰国してしまっていた。今思えば、であるが道理どうりでそういった人達と話が合わなかったわけである。
 
 
 
 工房に戻ると週末のイベント出店に向けて販売用のパンを幾種類か準備をした。そのかたわら飾りパンも作った。はたから見れば道楽者に見えるかもしれないが、そう見えていても最早文句もない。

 菜の花を中心に置いたイベントであったが肝心の菜の花はイベントを待たずして駆け足に咲き、そして咲き切った。話に聞けばイベントの一週間ほど前が最盛期ピークだったようである。その寂しき前情報に一矢報いる、という大それた志こそ無かったが、私は飾りパンの上に黄色に染まる菜の花畑を表現しようと、コーングリッツを取り寄せた。いざ手元に届くと、ドイツで見ていたものよりもずっと粒が細かかった。ドイツで一度同じ様な飾りパンを作っていただけに、粒の細かさに疑心暗鬼になりながらも作業を進めていくと、黄色い菜の花畑については案外悪くない出来であったのに対して、抑々そもそもの全体的なデザインには少々物足りなさを感じた。

 限られた設備と限られた時間の中で最大限の成果を上げるにはたった一つの頭と体を馬車馬の様に働かせる必要があった。イベントは三日間。その日毎に新鮮にパンを焼く必要がある。生地の仕込みから焼き上げて袋詰めをする迄、素直愚直すなおぐちょくに毎日やろうと思ったら幾種類ものパンを準備する事は到底難しい。例えば数カ月前迄の私はそういう場合が多く、どうしてもプレッツェル生地に集中したラインナップになっていた。その状況を打破し、新たな可能性を見出す試験としての役割も、私はこのイベント出店に持たせてあった。
 
 日曜日、オニオンの入った小型のパンをイベントの三日分相当になるまで生地を仕込み成形し、それを冷凍した。
 
 月曜日、同様にピザプレッツェルを只管ひたすら焼いて、それを冷凍した。
 
 火曜日、クロワッサン生地を大量に仕込み、折り込み、パン・オ・ショコラとクロワッサンをそれぞれ成形迄済まして、それらを冷凍した。
 
 こう書いていて我ながら思う。ドイツで勤めていた職場を脳内に浮かべると、これらの作業はたった一人でも一日で済ませられた筈の、して苦労のある作業では決してない。傍から見れば尚滑稽に、あれあれこんなにも非効率に時間と労力を浪費して時間は君、有限ですよ、と呆れた様に言われかねない。しかし当の私はその非効率を理解しているのと同じだけ、「限られた設備と限られた時間の中で最大限の成果を上げる」為の労力を惜しまない覚悟があった。果たさんとする目的が明確であるほど、一日二十五時間でも働いてみせる気概でいた。日頃の私が人からどう見られているか分かりかねるが、私は案外に逆境に奮い立つ反骨精神の持ち主である。
 
 
 くして事前に出来る限りの支度をして臨んだイベントの三日間は、それでも三日間とも夜の十時から起きて翌晩の七時にようやく眠れるくらいに働いた。事前準備をしておいてこれである。全く一日とはどうにも短い。夜の十時から朝八時までパンを焼き袋詰めをすると、それから会場へ移動して夕方の四時まで販売、そうして片付けを済まして帰宅して一日の垢を洗い落としたらもう寝る時間である。これを“労働”と認識して取り組んでいれば到底気も心も持つまい。幸いに私にはその感覚が欠落していた分、時間の無さを嘆く事はあっても労働的疲労については殆ど感じるに至らなかった。

 そうして身を粉にして焼いたパンは、想定よりも遥かに順調に売れた。所謂いわゆる祭屋台まつりやたい的屋てきや露店ろてんに並んで一角、ドイツパンを売っている個人テントの異物感たるやなかったが、三日目を除いて連日完売するに至った。顔見知りも何人か来た。何処ぞで私の存在を知ったという人も偶然通り掛けに寄った。私のパンを大変褒めて下さる人もいた。そうしている内に、今日は何時なんじから起きて働いていたんだっけかなというところへの関心など無くなり、そんな昔の事はうに忘れて販売員として店頭テントに立っているのが私の性分であった。


 
 
 疲労の正体は心労である。日本社会に初めて繰り出し、慣れぬ寮生活や新しい仕事、上司や先輩との人間関係におどおどとしていた当初の私が、寮の規則として定められていた消灯時間と起床時間の間に横たわる七時間半を眠ってもまるで体が重たかったが、ドイツに渡りドイツ語学習と製パン学習と仕事に時間を割く為にないがしろにしていた睡眠時間の四時間では疲労感は殆ど取れていた。結局私は後者の生活調律リズムが今日まで続いている。目が開いた時が朝で、目を瞑った時が夜である。御陰で時差ボケも一度として感じた事が無かった。
 
 「世間はゴールデンウイークなのに働かなくちゃいけなくて大変だ」という言葉に共感出来なかった私は、畢竟ひっきょう働いてなどいなかったのかもしれない。「労力に見合った売上か否か」と言う点に無頓着でいられる私は、最早“労働”が好きなのかもしれない。古代エジプト人や蟹※1船に魅せられたのも、逆境場面における反骨精神が刺戟されての事だったのかもしれなかった。嘲笑していただいて結構である。
 
 


※この作品では一部実在しない表現/漢字を使用しています。


(※1)蟹工船:小林多喜二の小説作品。1929年。

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