*26 ハーミット
ドイツでのみパンを学んできた私は、何時しかパンという物を農作物の類として数えるようになった。これは何もドイツの畑では土からパンが掘り起こされるという事を言いたいわけではない。然し乍ら収穫したばかりの土の付いた野菜と、窯から出したばかりの粉灰の付いたパンとが肩を並べている情景は全く私の言いたい事を具現化した物と呼べる。仮にそれが高級生食パンやメロンパンであった場合を想像すると場違いに思えよう。然しそれがライ麦パンであった場合、或いはプレッツェルであった場合、例え互いに土や粉を擦り付け合い、互いを汚し合おうとも、不潔な汚らわしさは無く却って崇高で美しいとさえ思う。そうした農作物に類えるパンが、私にとってのパンであり、形作りたい理想である。
絵になる、とも形容出来る。野菜とライ麦パンの並びを切り取って絵にしたらさぞ見栄えがしよう。そこにワインのボトルも並べ、チーズの塊にはフォークを突き立てる。舞台は畑の真ん中に立てた木製のテーブル。背景、遠くに霞んだ山脈を眺む。大変絵になる。絵になる、とは形容したが、これはあくまでも包括的な見方であり、額縁の中に切り取られた情景を構成する全ての要素の調和を見て、絵になると言っているだけである。
パンは何処まで行っても食べ物であり芸術作品ではない、という考えが私の胸の内、常に灯っている。絵になる景色の一部品に過ぎないパンそのものに、芸術的自個性を宿してしまえば忽ち調和は崩れる。深紅と黄金の入り混じる美術館の内であれば芸術的細工を施されたパンは光り輝くかも知れないが、いくら立派なショーケースに入れて愛でても来週には徐々に皺が入り黴が発生する。矢ッ張り農作物と同様、食べ物だからである。「俺達は芸術家じゃない、パン職人なんだ」と言っていたスティーブンやトーマスの姿を思い出した。
木曜日に発注しておいたロゴのシールを受け取る為グラフィックデザイナーのヤマさんの事務所を訪れた。前回シールを受け取ったのが二月の上旬であるを考えると、大凡一ヶ月半で二〇〇〇枚のパンを袋に詰めた計算になる。来たる四月から五月、六月とまたイベントを控えているし、注文販売も始めたから今度は三〇〇〇枚のシールを注文しておいた。
到着して車を駐車しているとバックミラー越しにヤマさんを見付けた。車を降りて挨拶をすると「寄って行きますか」と聞くから「よろしいですか、是非」と返事をして、車のエンジンを切るなり積もったばかりの雪が溶け始めて随所に水溜りの出来ている土の上を慎重に歩いて後について行った。
事務所に入ると早速シールと請求書を受け取った。「もっと多く発注すればその分さらに安くなりますのでもし良かったら」と助言を受け、確かにどうせ次々に費っていく物だからあり過ぎて困る事も無いなと次は言う通りにしてもう少し多く頼もうと思った。
席に着くなり珈琲を出して貰って、それでするりと境界線の分からぬ様に他愛も無い会話は始まった。境界線が分からなかったからどんな話から始まったか覚えていないが、それでもこの日の彼との会話の中には今後に活きるであろうヒントとスパイスが無作為に盛り込まれていた。
私の住む所の隣町でバラまつりというのが催されるというのを聞いて、そう言えば過去にそんな話を聞いた事があったのを思い出した。それが開催される一本木公園には幼少の頃によく遊びに連れて行かれていたが、大人になって、況して去年帰国してから一度足を運んだ時、子供の頃の懐かしさの中に、大人になってから気付いた新しい魅力があったのが印象的ですっかり気に入った場所であった。いや然しこれは決して他に共感を求められるようなものでもなく、ただ私がこよなく愛するウィーンという街の雰囲気を俄かに香らせている様に思われたのがその公園であった。そのバラまつりにも是非出店すると良い、という話をしてもらった。
五月の連休に合わせて地元では菜の花まつりが開催され、そこへの出店は既に申し込んでいた私は、菜の花の黄色をあしらったライ麦パンを焼けないだろうかなどとドイツにいた頃に好きだったパンを基に考えていた。そこへ来てのバラ祭りの話であったから、バラの花びらをあしらったパンなどは作れないかななどとアイデアの断片を口にすると、食用の花びらは売っていると言ってどこそこのバラ農園に是非聞いてみると良いとまた助言をくれた。
食用のバラの話を皮切りに議題は特産品の話へと移った。長野県出身でありながら特産品は林檎くらいしか知らぬ不躾な私にとって牡丹胡椒も坂井芋も殆ど新鮮であった。そうしてそれらを使った様々な加工品の話を詳しく聞く内に、先日のヨモギに次いでこれらの農産物とドイツパンを掛け合わせるアイデアが沸き上がって来た。
歴史深きパンを生業とする身として、パンに芸術性を求めぬと同じ様に、流行に応える様な独自のアレンジを加える事にも俄然興味の無い私は、伝統的な完成形をいかに精度高く自らの手で作り上げるかという宛ら書道家の如き姿勢でパンに向き合っている。それは同時に、パンの生い立ちや出生や家柄への理解も示し、また寄り添い尊重する事をも含むわけであるが、パンを農作物の類として扱っている私はパンと農作物を掛け合わせる事にはまるで抵抗の無い事を再認識した。独自のアレンジに興味がないと言っておきながら都合の良い男だ、と評されるも覚悟である。その場合は「良い男だ」という部分のみ真摯に受け止めるとするが、私の中ではそれら二つの間に明白たる違いがある。時代に囚われたエゴか、起源を捉えたアルトルか、である。
その他にも興味深い話を沢山聞いた私は、話の尽きるのを惜しみつつ事務所を後にした。パンとは別世界のクリエイティブを一身に浴びた私は、その帰り道にまた新しいアイデアを閃いた。
ヨモギ料理を振る舞うカフェの営業日であった水曜日にまた顔を出した。以前に試作したヨモギ入りのライ麦パンも、是非試食して下さいと持って行った。
ここは飲食を扱えるレンタルスペースの様な場所である。初めてここへ来た時、君もここを使って週に一度でも商売をしてみないかと誘われた私は、「何か出来そうな事を思い付いたら是非」と前向きな姿勢こそ示したが「どうしても自分はパンを作るだけの人間だからパンの販売は出来ても素敵なスペースを持て余してしまうと思うんです」という懸念点は滲ませていた。それが今週の水曜日になっても私に良いアイデアが無く、また支配人から「どうだ」と聞かれては渋った回答をした。ところがその状況を打破するアイデアが翌木曜日、畑の違うクリエイティビティを散々浴びた後に湧き出たのである。
カイザーシュマーレンのみを提供するカフェはどうだろうか。
建物は素敵である。が然し立地としては稍奥まっていて少し足を伸ばさねばなかなか来られない。そうして与えられる日も平日の見込みである。週に一度という状況で一般飲食店と同じやり方では賢くない。パンを大量に焼いて並べても上記の条件では廃棄のリスクも高い。それならその場で作れるカイザーシュマーレンというドイツの味、況してやコンビニにもファミリーレストランにも無いドイツの味を振る舞うだけのカフェにしてはどうだろうか。或いはクグロフくらいなら焼いて持って行ける。状況も限定的なら提供する品物も限定的にすれば釣り合いも取れよう。ドイツの味を提供する人間としての存在意義からも外れてはいないだろう。
ちょうど土曜日に発行された地元紙に私が載った。紹介文の中でドイツ国家資格だのドイツに八年半住んでいただのと書かれた人間が作るカイザーシュマーレンであれば、そうそう文句もあるまい。
※この作品では一部実在しない表現/漢字を使用しています。
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