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*31 ミスフィット

 エドガー・ドガの「カフェにて(アブサン)」という作品を知ったのは大凡おおよそ七年前である。その絵でアブサンという酒を知った。そうするとエドゥアール・マネの「アブサンを飲む男」という作品に行き着いた。いずれの作品にも不穏な空気が漂う。
 
 悪魔の酒と呼ばれるほど中毒性のあったアブサンは数々の芸術家を破滅へ追いやったと聞いた時、ドガの絵に描かれた紳士淑女も、マネの絵に描かれたシルクハットの怪しげな男も、或いはその作者であるドガやマネが、まさに悪魔に飲み込まれんとしている様でぞっとした。ちょうどアクションスターが満身創痍の状態で生身のスタントをしていると知った時の様な、上半身裸でギターをぶら下げ血を流しながら歌うロックスターを見た時の様な、血の匂いのする美しさがあった。命の輪郭に触れる様な恐ろしさがあった。
 
 二十五日、尾崎豊の歌声がラジオから流れて来た。早過ぎた命日をしのんでの事である。私もその当時に生きていれば予想だにしない訃報に相当な衝撃を受けた事だろう。そう考えた時、シド・ヴィシャスが彷彿とさせられた。彼もまた若くして命を失っている。現代、当時の彼と同じ年齢のミュージシャンが同じように命を落とした場合、果たして正しく報道されるのか怪しい類の死因ではあるが、そこにアブサンに飲まれて散った芸術家の影も屡々しばしば透けて見える。所謂いわゆる一般的な世界では満足の出来ない者は、ただ生きるのでも命懸けであるという事なのだろう。僕が僕である為にとは、華々しくは歌えても実際に行うのはその何倍も困難であると見える。
 
 
 
 先週の水曜日、赤坂見附の地下鉄ホームで私の携帯電話に着信があったのを私は出られなかった。見ると冬の間に御世話になった駅の観光局からである。電車の到着まで三分ほどあったから折り返してみると時間を要する話らしかったから、数分後に掛け直してもらうという約束で電話を切った。ちょうどホームに入って来た銀座線に乗り込んで外苑前駅を目指した。
 
 
 原宿で開かれていた個展を目指して歩く間も着信を気にしながら歩く。なかなか連絡が来ないまま結局個展会場に到着した。会場に入ってから電話が来ても困るからと、少し離れた所でふらふらと待っているとついに電話が掛かって来た。話は、私のパンを再び駅のカフェで扱わせて貰えないかという相談であった。
 
 冬の間は原則毎日置いて貰っていたが、冬場と夏場で利用客数に大きな開きのあるからと、週末のみの委託販売を打診された。私の方ではまさか断る理由もなく、是非前向きにと二つ返事で受諾の意向を示した。提示された条件や内容の一部にはあまり相応しくないものもあった。それは私にとって相応しくない事では無く、販売者にとって、或いはそれを消費する利用客にとって相応しくない事であったから、そうした点については気付くなりパン職人としての見地から指摘と提案をさせて頂いた。そうして五月の連休が明けてから、また相談しましょうという事で、電話は終わった。
 
 
 今週の木曜日、その駅のカフェで市役所の職員と待ち合せた。待ち合わせの五分程前に到着すると、既に職員の方がいらしたから、こんにちはと挨拶をすると、生憎あいにくカフェが混んでいるからと、一階に在る観光案内所へ階段を下った。
 
 案内所へ入ると冬場に御世話になった職員がカウンターの向こうに座って仕事をしていたから、御世話様ですと挨拶をすると、ああGENCOSさんだったんですねと立ち上がって言った。その口振りからして、恐らく市の職員さんが私の来るより少し前に案内所で「打ち合わせに場所を使わせて貰えないか」と丁寧に許可を取っていたが態々わざわざ相手が誰だという事まで伝えてはいなかった様子が伺えた。まあ一々論理的ロジカルに考えなくとも分かる普通の行動ではあるが、然しこうした場面で久しぶりに顔を合わせた駅の職員に対して「お変わりありませんか」の一言でも掛けられないのは私の無粋な性質である。決まってタイミングを逃した後になって、ああ今こう言っておけばよかったとたちまち後悔するところまでが何時でもセットである。

 席に着くと名刺を交換した。名刺交換時の所作しきたりは知らぬまま、ただ慣れたことは慣れた。さて用件は何だったかと言えば、これはまだ公表の出来ぬ事であるから勿体もったいぶってここでは書かない。しかし当然、パン職人としての私に対する青天霹靂せいてんへきれきたる依頼であった事は確かである。私などでは分不相応ではありませんか、と幾度も問いたくなるような話であったが、説明を受け、話を膨らませていく内にずんずん面白そうな話に化けていった。
 
 
 この職員が私の存在を知ったのは、先日発行されたローカル紙に載った私の記事ではなく、それよりもずっと古い、去年の秋に駅前で行われたイベントに出店していた時であったと言った。成程なるほどなんでもやってみれば何処で誰が見ていて、何がう繋がっていくか分からぬものである。この話もまた追って話を詰める約束でこの日の打ち合わせを終えた。また私の方で準備する物もあるから、こちらも五月の連休が明けてから早急に対応する事にした。
 
 
 来たるその五月の連休、私の地元では菜の花まつりが開催される。菜の花まつりと言えば子供の頃にかき氷を食った覚えが朧にあるばかりで、別段黄色の絨毯に感激を覚えぬ内に県外、国外へとどんどん離れて行ってしまった私は、今になって地元を彩る菜の花畑の圧巻ぶりに感心した。菜の花公園、と呼ばれる会場が黄色に色付いていくのを川の向こうに望みながら、川のこちら側はこちら側で同様に広がる菜の花畑に足を踏み入れてみると、不思議と幼少期が思い起こされた。案外背の高い菜の花畑の迷路は、子供にとっては良いアクティビティだったに違いなかった。

 その菜の花まつりに出店するにあたって不断ふだん以上に念入りに計画を練り始めた。帰国して以来、最も厳しい戦いになると予測されるからである。戦いと言ってしまっては視線が御客やパンではなく自らの都合に向いている様で面目も無いが、それでもそう感じざるを得ない状況が目前まで迫っているから前言の撤回もしない。
 
 出店は三日間。一日のイベント出店に掛かる時間と労力、それこそ先日のイベントもなかなか大変であったがそれの三連続という時点で気合が入る。その上設けられた搬入時間と搬出時間がそれぞれ比較的早くて遅い。そうした時間的な制限も相俟あいまって計算してみると、夕方の六時に帰宅して片付けをしたら間も無く翌日分のパンを焼き始めなければならなそうで、とてもじゃないが一つの体でそれをこなすのはなかなか容易ではないとまだ一週間前の時点で疲労困憊である。
 
 かと言って大凡おおよそ七時間とその場で店を構えている必要があるとなればいたずらにパンの総数を通例より減らすわけにもいかない。限られた時間と限られた設備の中で最大限の成果を捻出するにはそれぞれ一つずつしかない頭と体を精一杯に働かせるより他にない。まだ駆け出しの漫画家がアシスタントを雇えずにひーひー言いながら原稿を仕上げる様に、私も援軍無く製造と販売をひーひー言いながらやりこなす覚悟なら既に準備してある。果たして今週立てた計画通りに乗り越える事が出来るか、我ながら楽しみである。
 
 
 土曜日、連休前最後のカフェ営業をした。五月から「古書館カフェ」と名称を変えるこの場所の本棚は、すっかり沢山の本で埋め尽くされた。私の関心を引く本も沢山あった。御客の来ぬ間は、ふらふらと背表紙を眺め気になった本をぺらぺらと捲ったりもした。
 
 この日も一人、大量に本を持ち込んだ人があった。重厚で大変価値のありそうな画集などが持ち込まれたのに混じって野球漫画の“あぶさん”も運び込まれた。水島新司の絵は子供の頃によく真似して描いた。酒飲みの景浦安武かげうらやすたけを主人公に置く時点で子供向けの漫画で無い事はわかるが、それでも“ドカベン”を読んでいた子供の私がこの日捲った“あぶさん”の中に蘇った。来たる菜の花まつりの決戦に向け、場違いの様に思われる並びの中での出店に向け、何も知らない子供の様な気持ちで臨まれれば、悪魔の酒など無くともへらへら乗り越えられる筈であるは、一つの経験則である。


 
 
※この作品では一部実在しない表現/漢字を使用しています。
 


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