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*23 キノユルミ

 スマートフォンに届けられるニュースの中に「フリーランスあるある」という世俗的な題名を見付けたのが奇しくもその時であった。不断ふだんであれば見て見ぬふりをしてさっさと退けそうな記事をその時に限って態々わざわざ開いて見ると、その中の項目の一つに「無理に頑張り過ぎて体調を崩しがち」というのがあった。妙な予兆か、或いは第六感の仕業か、それを読んだ時の私はにわかに体調の違和感を覚えていた。
 
 
 その日は駅でのパンの販売の最終日であった。実際に駅に立ったのは十一日であったが、期間で言えばおよそ二週間の締め括りとして申し分の無い成果に恵まれたその日、私は朝から体に妙を覚えていた。体調不良と呼ぶほどの不具合も無いが、万全と呼ぶには何かがずれている。そういう感覚があった。その違和感が輪郭を持ち始めたのは、平生に比べた時のトイレに行く回数の少なさであった。
 
 深夜に目を覚ますとコーヒーメーカーを動かし、三杯分のコーヒーを淹れるところから私の日常は始まる。そうしてそれを水筒に入れると、工房での作業中や配達中、販売中に飲むわけであるが、御陰おかげでこの販売をしていた十一日間中、尿意との格闘を余儀なくされていた。販売をしている三時間の間はトイレには行かない、と意地を張っていた最初の数日から、後半になると人の波の落ち着いた頃を見計らって無理せずトイレに行っていたりもしたが、いずれにしても尿意の存在感は随分目立っていた。それがこの日に限って全く様子が違った。販売中にトイレに行かない所か、一切の尿意すら感じなかった。
 
 
 次第に店頭に立っているその姿勢すら辛い様な気が起こった。腰が痛んだ。これもこの十一日の内で初めてであった。立ち姿勢が辛いと言ったってまさかそこで崩れ落ちる様な腑抜ふぬけでもないから平気な顔で三時間を過ごしたが、思えば確かに一度や二度、ちょっとしゃがんでみようか知らんと頭に過った事があった。
 
 
 これが風邪の初期微動である、と判断した私は翌日に入ってた予定の延期を申し出る連絡をし、販売を終え駅の観光案内所へ顔を出すと最後の挨拶方々かたがた「明日のカフェへの納品はお休みで土曜日からまたお願いします」と先手を打った。そして帰り道にスーパーで饂飩うどんだの肉だの、不断ふだん余り口にしないような栄養を蓄えられそうな食材を買い込むと、帰宅してすぐにそれらを腹へ詰め込み薬を飲んで眠った。
 
 
 夜中に何度か目を覚ました記憶もあったが、十五時間くらいしてようやく意識をはっきりとさせて起きた。体が重たい。様子がおかしい。諸々の予定を前もって取り下げといて良かった、と安堵した。布団から這い出し体温計を探す。この時に朝飯を食ったかどうかももう覚えていない。それにしても十五時間と眠り続けて一度もトイレに行かない辺り、矢張り体調不良と尿意の関係はありそうである。ようやく体温計を見付けて測ると三十七度七分あった。案の定である。
 
 それからまた眠った。薬は飲んだ筈であるから、多分何か食べたのだろうとは思う。午後になって熱は一層上がっていた。一時は九度くらいにはなった。そうして思い起こされたのは前日に偶然目にした「フリーランスあるある」の内の「無理に頑張り過ぎて体調を崩しがち」という項目であった。
 
 
 土曜日になって熱も下がった。すっかり体調も良くなったが、丸一日以上寝っ放しであったから久しぶりに体を起こして活動しようとすると三半規管が安定に欠けた。本調子とは呼び難いが、何時までも病人であるわけにもいかない。来週に控えた注文と、先週迄の駅での販売を思い浮かべる。どちらも我が事でありながら我が事の様に思われないのは、病気をしていた時間がぽっかり空白になってしまっていたからである。日頃の睡眠時間で換算すれば約何日分の空白を感じていたのか、昨日と明日の間で何か重大な事を忘れてしまっている様な気がして何だか恐ろしささえ覚えた。

 今週の販売も思い返すと矢張り売上以上の成果があった様に思われた。果たしてそれはほんの僅かな人との出逢いと交わしたほんの些細な対話であったかもしれないが、そうしたものの積み重ねで気持ちが満たされるのは、一つは小さい食べ物でも幾つも食べれば腹が満たされるのと同じである。ここで言う気持ちとは随分抽象的な気もするが、達成感であったり満足感であったり、遣り甲斐とも言えよう。単純に販売成績だけを見れば場所代を稼ぐので精一杯であったが、記憶に深いのはその他の無形の成果物であった。
 
 
 今週の火曜日、駅での販売終わりに地元のローカル紙の取材を受けた。取材、と書くと大変仰々しいが、その実ローカル紙のほんの一角に私という人物の紹介を小さく扱って貰う程度である。三十分程度お話し出来たらと思います、と記者の方は言ってくれていたが結局話が弾んで一時間半と話し込んでしまった。
 
 その話の最中、付随して紙面連載の話も持ち上がった。私にどんな話が書けようか、という不安こそよぎれど断る頭のまるで無かった私は俄然前向きな返事をした。私が敬愛するかの文豪も、規模こそ違えど新聞での連載をしていた経歴を持つ。私にとってこの連載の話は、有益無益に関わらず人生の経歴に刻み込まねば気の済まぬ仕事であるは態々わざわざ言うまでもない話である。それだから幾つかこちらからの提案と、もしくはこんな話を書いて欲しいという指定があればそれに沿って書きますという事を伝えて宜しく申し上げた。
 
 
 また或る日は一人の男性客がプレッツェルを買っていくと、しばらくしてまた戻って来るなり「今早速食べましたが美味し過ぎてまた買いに来ました」と言った。聞けばその男性はアメリカで食べたプレッツェルが忘れられず、日本でもプレッツェルと見れば買っては食べていたが、私の所で買ったプレッツェルが中でも最も美味しく、アメリカで食べたその味と感動を思い出したと、そういう話であった。それで態々わざわざもう一度来て追加で買って行ってくれたのである。
 
 この感想が、この行動が嬉しかったのは言わずもがなであるが、私が作ったプレッツェルが「アメリカで食べた感動」の記憶に結び付いた事実が何より嬉しかった。これを聞けば暗に、同じプレッツェルでもアメリカとドイツでは物が違かろうと思う者もいる事と思うが、他所の国の食べ物に自国の要素をふんだんに盛り込んで独自の食べ物へ変化させるという文化はそれぞれ愛国心のあるアメリカとドイツの間ではある様に思われない。仮にあったとしても原本オリジナルの形は残されている筈である。
 
 そうしてまた同じ感想を別の客からも聞いたのが今週の不思議であった。その人も過去に私のプレッツェルを食べてアメリカ時代を思い出し、今週買いに来てくれたとの事であった。
 
 
 仮に私がプレッツェルの形だけを模した紛い物をマイスターの肩書の元に売っているだけであれば、こうした喜びは味わえなかった筈である。ドイツのパン工房に舞う粉と汗と歴史と、ドイツという国の空気と水と文化を体に染み込ませていなければ、こうした喜びを冷ややかな目で見ていたかもしれない。
 
 私は帰国後、プレッツェルを最初に焼いた。その時のプレッツェルはまさに紛い物たる出来栄えであった。姿こそプレッツェルでも、一口齧ればすっかり落胆するハリボテであった。それから色々と手を加え、微調整を繰り返し私が求めたのはドイツで食べたプレッツェルの味である。そうして何時しか私は、とても本物とは言い難い迄も、限りなくドイツの味に近付けたプレッツェルを焼き、それを売り、そうして今日こんにち、他人の感動の記憶に結び付いた。
 
 
 これも精を出してパンを焼き、売って受け取った一つの報酬であるが、その代償に体を壊していたんじゃ仕方が無い。土曜に見えた復調の兆しも日曜にまた影を潜めた。高々三日の療養も一週間の如く感ぜられた私は、よしんば月曜日からまた全速力で走り出しそうであるが、同じ轍は踏まぬ様、意図的に体を労わる練習も始めていかねばならない。
 
 


 
※この作品では一部実在しない表現/漢字を使用しています。


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