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*19 フリーランス

 「今お仕事は何をされているんですか」と聞かれて答えに窮する事がこの頃あった。パンを焼く、売るという動詞だけでは、なかなか社会には認めて貰えない様である。急細せせこましい社会に肩身をじ開けるにはどうも肩書きが必要だそうだから、私は自らをフリーランスのパン職人と呼ぶ事にした。店を持たないパン屋というのが近年流行っていると聞くがそれとはかすかに意を別つ。とは言えそんな微異ニュアンスは私が解っていればそれでいい事だからこれ以上深くまで言及するつもりもない。
 
 
 そんな私は月曜日に駅へ出向いた。駅のカフェでパンを取り扱って貰うにあたって、これまで何時いつも担当してくれていた女性職員と、それから所長と私の三人で詳細を取り決めましょうと言うのが目的であった。
 
 予定の時刻よりも少し早く着いてしまった私が観光案内所に顔を出すと、所長を呼ぶからしばらくお待ちになってと言われたから、一先ず案内所の壁に並んだ近隣各地のパンフレットを一通り眺めた。時には手に取って開いて見た。私の知らぬ場所がまだ沢山ある。そうしている内に所長が到着したから、名刺を交換してそうして話し合いは始まった。
 
 おおむね合意の方向で話が進められていく。有難う御座いますと応じつつも、過去にドイツで人生最大規模のてのひら返しを食らった経験が、容易に安心するを妨げる。規約の書かれた紙を読み、幾つかの注意事項を聞く。判然としない点についてはすかさず質問した。売値と卸値の協議も進む。自分の作るプレッツェルが外国人の口に合うかどうかを試したい、というのが駅へ依頼した最大の純動機であった私は、私に損が出ない内はお好きなようにと言わんばかりに駅の要求を飲んだ。
 
 案内所に流れる構内放送から不意にドイツ語が聞こえて来たから「あれ、これはドイツ語のラジオですね」と思わず何の脈略も無い事を口にすると、「そうなんですね、全然知りませんでした。ドイツ語はもう十分に喋られるんですか」と、笑って驚いた女性職員が嬉々として話を広げてくれたが、正式な話し合いの場で無関係な話を藪から棒に放り込んだのは世間知らずはなはだしいと誰ぞに叱られかねないなと、後になって反省した。
 
 
 くして私のプレッツェルを取り扱って頂く話は着いた。数量については様子を見ながら増やすなり減らすなりしていきましょうと取り決めた。後は正式に申請書類を作成して提出をお願いしますと言われたが、そう言いながらも駅の方では私の書類の提出を待たずぐにでも準備に取り掛かってくれる様子であった。
 
 
 この日の話し合いにはもう一つの御題があった。駅構内における独立した販売についてである。それこそ私がかねてから駅に市役所に相談していた件であるが、こちらも比較的前向きな言葉を戴いた。る程度の場所の指定と利用規約、それから場所代が記載された紙を私に見せながら所長は、「実は団体様がイベントで駅構内を利用する例は過去に何度もあったんですが、民間業者の方が個人で利用されるという例がこれ迄に無かったもんですから、規約や場所代についてもそれほど細かく決められていない状態でして」と申し訳なさそうに言った。見れば成程なるほど、確かにもう少し明細に定められていてもよさそうな場所代である。そうしてそれがまた比較的高かった。
 
 
 それじゃあまた熟考したのちいずれの申請書も作成してお持ちしますと言って、その日駅を後にした私は、帰宅するなり場所代を十分に支払えるだけの稼ぎを出すには幾つのパンを売りさばけば良いんだか算出した。数を弾き出したら今度はその実現性を考える。記憶の中の駅の賑わいを思い返す。あれだけの人がいれば十分売れよう。しかし裏付けがあるわけではない。そう思った私は翌火曜日にまた駅へ出向くと、人の往来を数え始めた。

 出店が許可された場合を想定した時間に、想定した場所を行き交う人数と、その内の外国人客の割合を出す為である。十一時から十四時迄の三時間、私は只管ひたすら目の前を過行く人の数を数えた。その日は三時間で六四〇人を数えたが、死角になっていた階段を使った者もいた様であったからもう少し多かったかもしれない。そうして昨晩算出した場所代分のプレッツェルが売り捌けるか考える。まあ考えても答えは出ないが、それでも幾らか希望は垣間見えた。
 
 
 翌日もまた十一時から十四時迄駅で人の数を数えた。新幹線と在来線と、それからスキー場行のバスと其々それぞれの発着時間の兼ね合いで、駅構内で暇を持て余しているスキー客が生まれる時間帯も把握するに至った。手持無沙汰に構内をうろつく彼らの前にプレッツェルスタンドが突如現れれば、買うに至らない迄も暇潰しに覗きには来るだろう。そこまで想像出来た私は、この日携えて来た二枚の申請書を帰り掛けに案内所へ提出した。すると担当の女性職員が、パンを今週末の土曜日から置かせて頂く事は出来ますかと言って来たから、勿論喜んでと答えて、それで土曜日に早速カフェにプレッツェルが並ぶ運びとなった。そしてこの人からも改めて「今は何をされているんですか」と聞かれたから、満を持して「フリーランスのパン職人です」と言ってみた後、「まあそんなの無いんですけどね」と慣れない肩書きに思わず小さく付け足したが、相手の方からはそれほど懐疑的で否定的な様子も垣間見えず幾らか安心した。
 
 その翌日もまた駅で三時間過ごした。流れていく観光客からはどう思われようと知った事ではないが、毎日見掛ける清掃係からは愈々いよいよ不審に思われているかも知れないと思うと居た堪れなかった。とは言え日によって、或いは天候によって人の流れが左右されるかどうかを知る方法は他に無かったから、たとえ不審者でも仕方がないと腹を括っての上である。
 
 問題はそんな所には無い。それよりも寒さがこたえた。暖房の回っていない所で三時間ほとんど動く事無く立ったまま視察するのも実際の出店を想定しての事ではあるが、手足の芯迄冷えるのがよく分かった。三時間冷やした体を、帰宅してから温めると手の甲や足の指がじんじんとみた。おそらく霜焼けである。それから腰と脚も案外疲れていた。
 
 
 金曜日迄視察して、土日を見ずにそれで御仕舞にしようと思っていたのも、実際に出店するを想定しての事である。土日と祝日は抑々そもそもその場所に単独でマルシェが開かれている。まさか後から来てそこに机を並べるほど図々しく育ってきていない私は、申請書にも「希望日時は土日祝日を除く全平日の十一時から十四時」と記載しておいた。土日こそ出店すべきじゃないのかと思う人も多いだろうが、そう考える人達が方々で手招きをすれば土日の客は其々それぞれに分散する筈で、平日だろうと観光に足を運ぶスキー客がこれほどにいながら、そのスキー客を平日という理由で路頭に迷わせていては勿体ない。私で無いにしても誰かがそこへ立って何かを陳列するだけで、手持無沙汰にならずに済む観光客もいる様に思うが、その辺りの私の仮説も実験してみねば白も黒もつかぬ。役所への申請が通ればこそであるが。
 
 
 果たして平日の三時間の内に、平均して一日当たり少なくとも六〇〇人の往来がある事がわかった。その内に外国人客はいずれも過半数を占める。券売機から伸びる長蛇の列、電車やバスを待つ間に彷徨う人も見た。私が出店出来た場合、私のブースからカフェへ人を流す役目も担える様に考えているが、その目標地点であるカフェの方では土曜日からプレッツェルが並んでいる。準備は万端である。売れ行きがかんばしく無ければ打ち切られるだろうが、原則三月末迄という約束をしてある。露骨なまでにインバウンドのスキー客に照準を合わせた販売である。その考えを理解し受け容れてくれた駅には感謝しなければならない。
 
 高々一週間の計測結果で五週間後を占えるとは到底思わない。それを知るには五週間後に計測するより他に方法が無いからである。喩え三六五日計測に明け暮れても、それで翌年が占えるかと言えばまた首を横に振らなければならない。今週数えた数字は無論僅かな目安である。しかし御陰で私は出店初日に一五〇〇個のプレッツェルを用意して大赤字を出さずに済むのである。
 
 
 週末に道の駅の職員から「お店はどちらに」と尋ねられて「今は工房のみでお店は無いんです」と答えた後、「お店があったら良いとは思うんですけどね、お店が無い時にしか出来ない事もある筈ですから今の内にそれをやっておきたいなと思っているんです」という言葉が不意に口を突いて出た。肩書よりもこの時に口を突いた動詞の方が私にとってはしっくり来た。
 
 


※この作品では一部実在しない表現/漢字を使用しています。


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