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「科学哲学講義」 森田邦久

ちくま新書  筑摩書房

第1章「日はまた昇らない?-自然法則の必然性について」


人間がよく起こす論理的誤りのパターン

1、前提間違い
 1 すべての哺乳類は卵を産む。(大前提)
 2 カラスは哺乳類である。(小前提)
 3 ゆえにカラスは卵を産む。(結論)
(p34)


これは演繹的推論(三段論法)形式自体は正しく、そして結論も正しい。ただ、前提は大前提も小前提も間違っている。論理的形式が正しければ、前提も正しいと思いがち。

2、アブダクション
 1 すべての金属は熱したら膨張する。
 2 金属Aは膨張した。
 3 ゆえに金属Aは熱さられた。
(p35)


膨張はしていても、何か別の理由があるのかもしれない。でも手短な理由を持ち出して理解してしまう。このアブダクションは言葉とか認知発達していくためには必要だが、間違った推論も引き起こしがち。この2と3がひっくり返れば演繹的推論になる。

第2章「原因なんてない?-因果の実在について」


第2章の因果論のところでは「雷光と雷鳴」の例が挙げられている。雷光があって雷光が届くわけだが、雷光は雷鳴の原因ではなく、両者の原因はまた別にある(不安定な大気条件とか?)
(2024 02/07)

因果関係を人間が考えてしまう2つの要因(って言葉でいいのか)。物理学的には過去にも未来にも開かれた(対照的な)運動(振り子運動がわかりやすい)であるのに何か一方通行的なものを感じる。
一つは例の?エントロピー増大の法則。

 整理された状態のパターンは非常に限られていますが、散らばった状態のパターンはそれと比べると圧倒的に多いので、どんどん散らばっていく可能性が高いからです。
(p72)


割れたコップが元に戻るのも物理的にあってもおかしくはないが、確率が圧倒的に少ない。
二つめは、因果関係と主観。ヒュー・プライスによると因果関係というのは人間が作り上げたもので、客観的には実在していない。が「ある一定の条件下では私たちはある決まった因果関係を見る」(p77)。その「ある一定の条件」とは「過去を知っていて未来を知らないがゆえに、過去は固定されていて未来は開いているように感じる」(p77)というもの。
この二つが重なり合うことで、因果関係が生まれていく。
(2024 02/11)

第3章「原子なんてない?-見えない世界の実在について」

ラリー・ラウダンの「悲観的帰納法」。天球、燃素、エーテルなど、これまではよく観察結果を説明できていた理論が、最終的に捨て去られていく。

 このように、科学史上、成功していた理論が仮定していた対象が、結局は「ない」とされた事例は多くあるはずです。その事実からラウダンは、帰納的推論によって「成功していた理論的対象は存在しない」という結論を導くことができることを示しました。
(p94)


もちろんこの本ではその先の実在に近づくための考えを示しているのだが、全く個人的にはこのラウダンの考えには惹かれるものがある(ラウダン自身がどういう考えかは不明(たぶん、なんらかの乗り越えるための仮理論のようにしていたのかな))。
ここに続く、この著者森田氏の専門であると思われる量子力学の妥当性問題?はもっと詳しくゆっくり読んでいきたい。

第4章「科学は正しくない?-科学とそうでないものの線引きについて」


ポパーの反証可能性に対する批判というか問題。ある理論が何かの実験で否定されたとしても、多くの理論はいくつかの補助理論が組み合わさった複合物で、どこかの補助理論を直すことで対応可能になる(そのこと自体は両方向の効果がある)というもの(全体論)。

 ある理論を検証または反証する場合でも、そもそもある理論があり、その理論を反証または検証しようとするからこそ、その実験・観測を行っているのです。このように、なにを観察するか、また、観察された結果をどう解釈するかは、なんらかの理論に依存しています。このことを「観察の理論負荷性」と言います。
(p136)


例えば2011年のヒッグス粒子発見は、そもそもヒッグス粒子というものが理論的に予測されていたから可能になった(極論すれば、宗教の理論での、神の奇跡が観察されるのは神の存在理論にのっているからだ、というのとほとんど変わらないのでは、という疑問も)。この観察の理論負荷性が論じられた1950年より前の1926年、アインシュタインはハイゼンベルクとの対話で「理論があってはじめて、なにを人が観測できるかということが決まる」と言っていた。これをハイゼンベルクは展開して不確定性原理を導き出す。
(2024 02/12)

第5章「科学で白黒はつかない?-科学の合理性について」


クーン(パラダイム)-ラカトシュ(研究プログラム説」-ラウダン(研究伝統)
ラカトシュ…理論には中心の「堅い核」と周辺の防御体の層を持つ。その理論を否定するような事例が出た時、核はそのままに防御体を変化させて取り込んでいく。
科学的理論か否かを決めるのは、その理論によって新しい事実を予測できるかどうか。真であるかより発展性の有無で決める。よってパラダイム理論のような共約不可能性(理論どうしを比較できない)を脱している。ただし、誕生したばかりの理論などは退行的プログラム(予測があまりできない)でも切り捨てずに見守る期間が必要(いつ予測できるようになるか、理論が成長していくかなど)。
問題点…違う研究プログラムの研究者でも、同じ核によって研究していることもあるし、その逆もある。

ラウダン(第3章でも出てきた)…研究伝統は理論そのものは含まれず、問題を解決するための手順とか命令のようなもの。科学と擬似科学の線引きは難しい(というよりラウダンはそれは不可能だと述べている…やはりこのラウダンという人物は気になる、自分好み?かも)

科学的知識の社会構成主義…社会や環境が科学的知識を決める。科学の内部での合理的基準はない(ここはさすがに森田氏は疑いの目を向けているが、科学(自然)以外にはこの社会構成主義を概ね認めているよう。自然科学以外には合理性判断はないというのかなあ…)

第6章「科学ってなに?」


(ここでは副題もないシンプルな章題)
というわけで、森田氏が考える科学的説明とは何か。
1、広い意味で(現時点で観測できなくても)観察可能か
2、新たに導入された要素が観察不可能な場合、それが周りの理論などを新たに統合していけるか
さらに、一つの理論としては科学的説明とは言えないものも、それを含めた「総体」としての科学体系から見ることも必要。
…ということで、読み終え。科学哲学の導入として読みやすい本だと思う。なので、ちょっとでもいいから参考文献欲しかった…
(2024 02/13)

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