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『ホワイトデーは倍返し』

 「ホワイトデーは倍返しだよ。意味、分かってるよね?」
 バレンタインデーの夜、彼女が言った一言が俺を突き動かした。たった一ヶ月で準備できるのか。できるかできないかじゃない。やるんだ。

 あの時、俺は文字通りボロボロだった。肉体的にも、精神的にも。
 不甲斐なさからか、それとも緊張の糸が切れて体の痛みを感じたからか、家に帰ってソファに座るなり、涙がこぼれた。
 「イカついコワモテの男が、なにめそめそしてんのよ」
 そう言いながら、彼女がリビングに入って来た。
 「泣いてねえよ。それより、まだ起きてたのか?」
 「寝れるわけないじゃん。ギリギリ日付変わる前に帰って来てくれて良かった。ほら、これ」
 綺麗に包装されたチョコレートを、彼女が俺の胸に押し付ける。俺は、その日がバレンタインデーだったことなんて、すっかり忘れていた。
「ホワイトデーは倍返しだよ。意味、分かってるよね?」
 彼女は俺の目を真っすぐ見つめて言った。俺は彼女を見つめ返しながら、何も言わずに頷いた。

 プロレスラーとしてデビューして今年で六年目。まだ若手と呼ばれつつも、俺はすでにプロレス雑誌の表紙を飾ったこともあるし、グッズの売れ行きも好調だ。
 そこへ、入門もデビューも同期のアイツが三年間のメキシコ武者修行から帰国してきた。帰国して最初の試合が、俺とのシングルマッチだった。
 三年間も海外に行っていたアイツのことなど、国内のファンはとっくに忘れてしまっている。それに、アイツが相手にしてきたメキシコのレスラーは平均的に体が小さいのに対し、俺はヘビー級の諸先輩方の胸を借り、練習も試合経験も積んできた。人気、実力共に俺が優っているに決まっている。俺はそう信じていた。

 試合当日。バレンタインデー。アイツがリングに向かって入場してくるなり、会場がどっと沸いた。ただ単に、海外遠征から帰って来たという話題性から客が盛り上がっているのだと思った。いや、思いたかった。入場してきたアイツのオーラは、確かに人を惹きつけるものがあった。俺が対戦相手ではなくファンだったら、アイツを応援していたかもしれない。
 しかし、体の大きさは明らかに俺の方が勝っていた。岩のようだと言われる俺に対し、アイツはいわゆる「痩せマッチョ」タイプの体つきをしていた。一瞬で勝負をつけて、力の差を見せつけてやる。俺は心の中で鼻で笑った。
 
「ワン、ツー、スリー」
 レフェリーのスリーカウントが俺の鼓膜を揺らした時、俺はリングの中央に横たわっていた。
 マイクを持って観客にアピールするアイツ。アイツに拍手と歓声を送る観客。思いもよらない結末。
 気づけば俺は、アイツに襲い掛かっていた。他のレスラーたちが取っ組み合う俺たちを止めに入り、アイツは再びマイクを持った。
「三月十四日、またこの会場で大会があるよな? リベンジマッチ、受けてやるよ」
 ニヤリと笑い、マイクを放ってリングから立ち去るアイツに、観客たちが大歓声を送る。

 あの日は悔しすぎて、その後家に帰り着くまでのことは覚えていない。
 だが、彼女の言葉と強い眼差しは俺の胸に焼き付いている。
 俺の体づくりに気を遣って選んでくれたのであろう、ハイカカオのチョコを口に運ぶ。苦みと甘みが、まさにあの晩の一連の出来事のように口の中に広がる。
 会場では負けてもなお、多くのファンが俺に声援を送ってくれた。そして、家に帰ると、常に俺を応援し支えてくれる彼女が待っていてくれた。こんな幸せな環境を作ってくれた人たちのために、ホワイトデーはアイツに倍返ししてやるんだ。


作:田中エイドリアン

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