025_混迷
晴れやかな青空は、歓楽から、悲鳴へと塗り替えられた。和やかな空気は一転し、競技場は、不穏なざわめきに包まれている。
「サミュエル、血が、血が……!」
衆目は、今やこちらに向けられていた。
数多の視線など、気にしている余裕はない。
ルシアは、零れ落ちる血を止めようと、懸命にサミュエルの傷口を押さえていた。
白いポケットチーフにはあっという間に朱の色が滲み、青い士官服の袖は、どす黒く染まっている。
「ルシア様、お召物が汚れてしまいますよ。」
サミュエルは、必死に縋るルシアに、困ったように眉根を寄せた。
「そんなの、どうだっていいわ!」
ルシアは、思わず声を荒らげた。
ドレスが汚れようが、この手が血に染まろうが、彼の苦痛を和らげるためなら、ちっとも構いはしない。
「ご心配をおかけして申し訳ございません。ですが、ルシア様。ご安心下さい、かすっただけですから。」
サミュエルは、ルシアを宥めるように、精一杯の笑みを浮かべた。すこし顔が引きつっているのは、痛みのせいだろうか。
「でも、全然血が止まらないじゃない……!」
こんな時、どうしたらいいのか、全く分からない。
焦りで、頭が沸騰してしまいそうだ。
サミュエルは、身を呈して自分を守ってくれたのに、彼に何もしてあげられない自分に腹が立つ。
「陛下、サミュエル君、ちょっと失礼しますよ。」
混乱気味のルシアの後ろから、アーサーが、ひょっこりと顔を出した。
彼は、ルシアとサミュエルの間に割って入ると、サミュエルの傷口に、手際よくチーフを巻きつけた。
包帯がわりの白いチーフは、あっという間に真紅に滲む。
それを見たアーサーは、するりとボウタイを外すと、サミュエルの上腕を、きつ目に縛り上げた。
「私には応急処置しか出来ませんが、心臓に近い部分を押さえておけば、いずれ血も止まるでしょう。」
流れるように手当てを終えたアーサーは、金縁眼鏡のブリッジを押し上げると、涼やかな笑みを浮かべた。
「ありがとうございます、メルキュリー伯。」
眉根を緩めて礼を言うサミュエルに、ルシアは、ほっと胸を撫で下ろした。
これなら、すこしは彼の苦痛も和らぐだろう。
「ルシア様、兄様、戻りました。」
人混みをかき分けて、エドワードの長躯が、こちらへ近づいて来る。
その肩には、気絶した男を担いでいた。両手足を縛られた男は、ぐったりとして、目を覚ます気配もない。
「その男が襲撃犯かい?」
「はい。ただ、もう一人仲間がいたんですが、そいつには逃げられてしまいました。」
サミュエルに問われたエドワードは、申し訳なさそうに太い眉尻を下げた。
「襲撃犯を捕らえただけでも十分だよ。よくやったね、エディ。」
サミュエルは、そっと右手を差し伸ばすと、労うように弟の頭を撫でた。
「兄様、傷は大丈夫?」
エドワードは、すこしくすぐったそうに頭を振ると、眉根を寄せたまま、サミュエルに問いかけた。
「ああ。かすり傷だ。大したことはないよ。ルシア様とメルキュリー伯が、応急処置をして下さったしね。」
「そう。ならいいんだけど……。」
エドワードは、心配顔のまま、空いた席に担いでいた男を下ろした。
「さて、こいつは何者だ……?」
サミュエルは、男に歩み寄ると、目深に被ったフードをめくり上げた。
「……サミュエル?」
男の顔を見て、サミュエルが、ぴたりと動きを止めた。
ルシアは、訝しく思いながら、サミュエルの後ろから男の顔を覗き込んだ。
陽の光に暴き立てられた男の赤毛が、夏の日の暗い記憶を呼び覚ます。
「ハワード・マクガレン……! こんなに早い再会になるとはね。」
「ヴェラの一件の時の使用人? 道理で、どこかで見た顔だと思った。」
サミュエルの苦い声に、エドワードが得心のいったように頷いている。
ルシアは、それを呆然と眺めていた。
白面騎士団の団員が狙撃手だということは、実の叔父が、自分の命を狙ったということに他ならない。
ある程度予想していたとはいえ、あからさまに突きつけられた現実は、どこか他人事のように、意識の上を滑っていく。
思っていたよりも、早い帰国になりそうだ。
ルシアは、ただ、それだけを理解した。
鴉の群れが、茜空を横切っていく。
ルシアは執務室で政務を片付けながら、ハワードの尋問が終わるのを待っていた。律動的なリズムを刻む時計の針の音だけが、部屋の中に苦い残響を残している。
幸い、サミュエルの傷は、数針縫う程度で済んだ。後遺症も、残らないらしい。
それだけで、ルシアは人心地ついた気分だった。
もしあの時サミュエルが咄嗟に庇ってくれなかったら、自分は今頃、ここにいることもなかっただろう。
それを思うと、今更、震えが来る。
「尋問の調子はどうなのかしら?」
ルシアは、薄ら寒さを誤魔化すように、傍らに控えるサミュエルに問いかけた。
「捗々しくはありませんね。ハワード・マクガレンは、白面騎士団を除隊になったと言ったきり、だんまりのようです。」
サミュエルは、カップにお茶を注ぎながら、苦い声を漏らした。
「そう……。あくまでも、叔父様は関係ないと言い張っているのね。」
ルシアは、溜息をひとつ零すと、受け取ったティーカップに視線を落とした。
薄紅の水面に、暗い顔の自分が映っている。せっかくサミュエルが淹れてくれたお茶が、不味くなってしまいそうだ。
「ええ。除隊になったのは、本当のようです。その腹いせの単独犯だというのは、疑いの余地がありますがね。」
サミュエルは、小さく頷くと、考え込むように両腕を組んだ。
「あなたの傷は大丈夫なの? サミュエル。」
ルシアはカップから顔を上げると、サミュエルの青銀色の瞳を覗き込んだ。
彼は、本心を表に出さない癖がある。すこしでも、彼の変化を見逃したくない。
「ええ。お陰様で、任務に支障はございませんよ。」
サミュエルは、案の定、当たり障りのない笑みを浮かべた。
「そういうことを聞いたんじゃないのだけれど……。痛くない?」
ルシアは、すこし躊躇いながら、サミュエルの裾を引いた。
「……多少痛みはしますが、痛み止めが効く程度です。ご心配をおかけしましたね。」
サミュエルは、諦めたように瞑目すると、申し訳なさそうに力無い笑みを浮かべた。
「気にしないで。心配しか出来ない自分が、腹立たしいのよ。……でも、守ってくれてありがとう、サミュエル。あなたが軽傷で良かったわ。もしそうでなかったら、わたくし……。」
ルシア、ぎゅっと唇を噛んで言葉を飲み込んだ。
想像するだけでも、震えが止まらない。自分を守るのが、騎士であるサミュエルの務めとはいえ、万が一にも命を落とすようなことがあったら、自分はどうにかなってしまうだろう。
「ルシア様……」
サミュエルがなにか言いかけた、その時だった。
ノックの音が、彼の言葉を遮ってしまう。
「どなた?」
ルシアは、手を止めると、ドアに向かって誰何した。
「エドワードです。ルシア様に、お客様がお見えです。」
「こんな時間に珍しいわね。……どうぞお通しして。」
ルシアの許可が下りると同時に、扉がゆっくりと開かれる。
エドワードの後ろに佇む影は、意外な人物だった。
「ルシアや、久しぶりじゃのう。」
老いて痩せた身体を凛と伸ばした老人は、親しげに、ルシアに声をかける。
すっかりまばらになった頭髪をきっちりと撫で付けた老爺は、杖をつきながら、ルシアに歩み寄った。
「ハロルド大叔父様? お久しゅうございます。」
先王ザカライア三世の叔父であるサンフォード伯爵ハロルドに、ルシアは、ぺこりとお辞儀をした。
ザカライアの父ナサニエルの時代には、モントール公爵だった老爺は、爵位を甥のカーティスに譲り、今は隠居の身である。
そんな大叔父が、こんな夕暮れに、ひとりでふらりと現れるのは、初めてではないだろうか。
ルシアは立ち上がってハロルドの手を取ると、窓辺に設えられたティーテーブルの向かいの席に座らせた。
「わざわざお越し下さりありがとうございます。今日は、どうなさったんですの?」
サンフォード伯爵領は、王都から決して近くはない。何の用もなく、現れはしないだろう。
「ルシアや、ブリッツベルグでは、大変な目にあったのう。新聞が、連日大騒ぎしておるだろう? さすがに、ちと気なっての……。ひとつ、爺が昔話をしておくべきかと思うてな。」
ハロルドは、サミュエルが淹れた紅茶を一口啜ると、意味深な溜息を吐いた。
「昔話?」
ルシアは、騒めく胸を、ぎゅっと抑えた。
何だか、とても嫌な予感がする。
「……お前の父、ザカライアの話をの。」
重々しく吐かれたハロルドの言葉が、執務室に深い影を落とす。
遠くで鳴き交わす鴉の声は、不吉な響きを残していた。
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