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最近思うことは、田舎の年配の人間について、首を傾げることばかりとなっている。年齢に関係なく、彼らが若かりし頃、社会人となった時に、その企業は徹底した社会人教育を行っていたのかという疑問が生じるのである。 筆者の場合は、新聞社の筆記試験、面接試験などを通して採用され、すぐさま現地での拡販体験などの野外活動やディスカションを通じて学びが始まり、後は諸先輩の苦言により躾けられ、各部署で厳しく教育を受けた記憶がある。 しかし、社会人としての教育システムは特別に存在せず、各自
本日も5名様がフォロー外しをしていた。それも、最近フォローをしてきた人たちが殆どであり、フォローをして、フォロワーを獲得して、すぐにフォローを外すという愚行である。 本日、最もおかしな人物は、フォロワーを掻き集めて、自分からのフォローがゼロなのだから、何を考えているのかと首を傾げてしまう。 多分、自分はフォローせずとも、これだけの人間がフォロワーとして登録しているんだと虚栄を張りたいのか知らないが、最も癖の悪いフォロー&フォロワーの認識である。 通常は、わざわざ
人様のお世話になり、感謝の念がない人を目の当たりにすると、その人は善き人生を送っているようには思えない。 過去において、企業コンサルティングを引き受けた時に、女性社員が入社時の面接で言い渡された給与額とは異なり、5万円ほど減額されているという。 その会社には牢名主のような女帝が経理を預かり、経営者に対して社員の欠点や失態を耳打ちする人間がいた。所謂、癖の悪い告げ口女である。 告げ口女は、巧妙な忖度により経営者の信頼を得ており、毎日のように、若手社員を恫喝したり嫌
世の中は、クロスメディア時代へ。ポータルサイトとnoteの比較 筆者が1995年8月22日に立ち上げたポータルサイト The Rosetta Stoneとnoteのアクセス件数の比較をすることにした。 現在、The Rosetta StoneのBlog Newsでは、1日あたり1件のニュースをアップしているのに対して、noteでは1日あたり5件から8件ほどを目処にエッセイやコラムを投稿している。 前者の1日あたりのアクセス数は平均約40,000件、後者は1,700
先ほど、月間のビュー数を見ると、約5万件である。よって、このままいけば、1年後の年間ビュー数は60万件となり、目標の100万件達成率六割に届く程度である。 野球の打者の打率と考えれば、以上に高い数値だが、全く満足できるものではない。この低い数字の要因は、筆者のエッセイやコラムの質であったり、テーマであろうかと猛省しているところだ。 また、過去1年間のビュー数を振り返ると、約38万件なので、次年度は57.8%増となるので、悪くはない。しかし、目標を掲げたのであれば、そ
ある人のnoteを読んでいると、腹を抱えて笑い転げ、激しく賛同してしまった。そこにあるのは、似非コーチングや似非コーディネーター、似非スピリチュアルな人間の存在とその挙動に関するものであった。 確かに書かれていた記事は的を射ており、よほど自分大好き人間が虚栄のために、自己過大評価を行い、自己暗示をかけて、如何にも立派な先生面してnoteデビューしているのであろうと。 自分を評価してくれるのは、第三者である。それを自らをエベレスト山のように高く評価して、極上のノウハウ
自己診断をすると、筆者は社会人となり、新聞社を経て若くして起業したが、「武士は食わねど高楊枝」を貫く典型的な愚か者の一人であると思う。 起業と一言で言っても、紆余曲折、波乱万丈の毎日である。日々、見えざる仮想敵国との闘いであり、先手必勝で事業を展開する筆者にとっては、まさに戦場の最前線に立っているようなもので、一息つくことも許されなかった。 現在でもそうだが、どんなに苦しい局面であろうとも、顔色一つ変えず、冷静沈着なポーカーフェイスで対応しているのが悪癖であると思っ
新聞社時代から現在に至るまで、「地域おこし」、「村おこし」、「町おこし」が常に頭のどこかにある筆者である。 理由は、新聞社を若くして辞め起業する前に手掛けたのが、長崎県上五島の旧奈良尾町の「トライアスロン in 奈良尾」であった。 新聞社を辞める4年前に、同町観光協会専務理事が熊本を訪れ、当時の交通センターホテルで会うことになった。 相談内容を聞くと、98%若い人たちが島外へ就職や進学のために出ていくので、過疎化が加速しているとのことであった。 筆者が勤務し
随分前に筆で遊んだ書が出てきた。「旬間」という造語である。 1984年以来、リンゴ漬けとなった筆者だが、このリンゴの影響で、人生は急変することになる。 新聞社時代に手掛けたニューメディア。兎に角、パソコン全国紙に記事を連載するほどに、熊本県内では初となるニューメディアセミナーを次から次へと企画運営していた。 最近の言葉を借りれば「最新デバイス」を利用した、アプリ徹底研究のようなセミナーである。 その中で、筆者の心がリンゴに傾いたのは、Apple創始者の一人で
よく、「あいつは、胡麻粒みたいに小さい人間だ!」と揶揄される人がいる。小心者で、実績もなく、存在自体が希薄な人物という嫌味な言い方だ。 最近の人間は大人になり切れぬ、稚拙な人間が増えている。極端な話であるが、料理は進化しているのに人間は退化している。料理は日々創意工夫が加えられ、改善改良があるから進化する。 胡麻粒と言われるのが気に入らぬのであれば、大豆になればいい。大豆は食材の王様だ。江戸時代のベストセラー本「豆腐百珍」をご覧いただければ分かるように、筆者のような
他者との距離感が分からぬ人がいる。初対面でもとても馴れ馴れしかったり、長年の間接点があるのに常に余所余所しかったり。 他者との適切な距離感にて、プライベートもビジネスも、その語りやトーンが変わってくるはずだ。しかし、距離感が分からぬ人はマイペース。 よって、公然の立ち位置として、自分自身が見えなくなっている。可愛らしく言えば天然、厳しく言えば鈍感+無頓着。 芸術の領域にて、自分の世界の中でひたすら創作活動を続ける人間であれば容認されるが、一般的な社会人となれば、
対人関係において、長年築き上げてきた信頼というものは、お金では買えないほどの価値があり、強固な人生の礎を支えてくれる宝物である。 ところが、世話になった人に対して不義理をしたり、大切な人へ虚言を持って騙したり、仕事上で裏切ったりで、折角築き上げてきた信頼を足元から崩す人物がいる。 特に、長年の間、本性をひた隠すために、虚偽の衣を纏っていた人物は自業自得であるが、一夜にして、信頼という対人関係において最も重要な絆がブッツリと切れてしまうのである。 実態が判明すれば
仕事が上手くいかない人で、言い訳だけは一端の大人のような屁理屈を言う人物がいる。そのような稚拙な言い訳を考える暇があるなら、仕事に傾注し、実績を出せばいい。 仕事が上手くいかない言い訳を当然のように語る姿は、あまりにも見苦しい。言い訳は、自分の正当化、責任転嫁、そして、責任回避という姑息な思考回路から生まれてくる悪癖である。 言い訳ほど見苦しいものはない。言い訳ほど生産性のないものはない。言い訳ほど周囲を落胆させるものはない。ただ、自らの無能さを助長するだけだ。
竹輪耳にて、他者の話に上の空。頭から他者の言葉を疑ってかかる奇妙な人間がいる。人間不信なのか被害妄想なのか判らないが。 先ずは、他者の言葉を疑う自分を疑ってみよ。如何に、歪んだ思考回路を持っているのか見えてくるはずだ。少しも見えなきゃ、既に重症である。 初手から他者の言葉を懐疑的に判断し竹輪耳となる人は、どうしても、他者との信頼関係を築きにくいところに位置している。よって、良好なヒューマンコミュニケーションが取れるはずがない。 日々その繰り返しであるために、常に