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安野光雅先生に寄せて

今回の記事は、noteの定期購読マガジン「ロンパースルームDX」で公開した『還暦不行届』第四回に加筆修正をし、「ユリイカ 2021年7月臨時増刊号 総特集=安野光雅」に寄稿した文章です。(スタッフ)

1月に安野光雅先生の訃報を知った。
年代を問わずその作品に触れて育った人は多いと思う。
私もその1人で、幼稚園の頃に出会った「ふしぎなさーかす」は毎日見ていても飽きず一日に何回もページをめくり、一つの絵からいろんなことを想像した。
どのページをとってもいくらでも想像が膨らんで止まらない。

本当にふしぎで、ページの中に描かれていない動物や人々が隣のページの裏に隠れているような感じがするのだ。
なんとかしてそれを捕まえてみたいと園児の私はすごい速さでページをめくって見たりしていた。

ご存知の方もいらっしゃるかもしれないが、私のペンネームの「安野」は光雅先生から拝借した。
十五歳で漫画を初投稿した時のことだ。

下の名前は何回か変えたけど、最初から苗字はこれにしようと決めていた。
「大好きな安野光雅さんのようになりたい」という今思うととんでもねー動機の他に「アンノ」という音に惹かれた部分もあった。
なんとも可愛くてころんとしている感じがしたのだ。

時々見かける誤情報で、私は庵野秀明監督のファンだったからペンネームをアンノにしたというのがあるが、正直言ってペンネームを決めた高校生の頃の私は監督のことを知らなかった。
その頃の自分にとってアンノといえば安野光雅先生しかいない。

後年自分が好きでつけたペンネームと同じ音の人と結婚して公私ともにアンノさんと呼ばれるようになろうとは、そのころは夢にも思わなかったが、嫁入りしてまもなくその苗字に関して驚いたことがあった。

庵野の父は安野光雅先生と全くの同郷で、島根県津和野町出身だったのだ。
これは結婚するまで全く知らなかった。

結婚後の挨拶で初めて津和野に行った時は、道の側溝を流れる澄んだ清流とその中を泳ぐお魚に驚いたが、当時できたばっかりの「安野光雅美術館」に図らずも行けることになり、誰も見ていない隙にこっそり踊るくらい嬉しかった。

義父は津和野で生まれて育った。
実家も含めて「庵野」が何軒かいる。「安野」さんも何軒かあるのだろうか。
珍しい苗字でも地方に行くとその地域にだけ沢山いたりするが、「アンノ」も津和野に多い苗字なのかもしれない。

津和野は山に囲まれていて川が流れている。
小さな町だけど起伏があって風景に立体感がある。
光雅先生の「旅の絵本」に出てくるようなオレンジの瓦屋根が続く、美しいところだ。
日本の珍しいお祭り装束で必ずその名が上がる「鷺舞神事」も津和野弥栄神社のもので、夫も小学生の頃に見にいったことがあると言う。

お祭りといえば商店街の広場に設置された会場で、オバQ音頭を踊り狂っていた団地育ちの私からすると、歴史と地元の繋がりが感じられて非常に羨ましい。

14〜5年前のことにもなるが住んでいた鎌倉でいつものように散歩して馴染みの古本屋に入った。
毎回その古本屋では運命的な本との出会いがあるのだが、その時も監督が「これ!」と言って一冊の絵本を手に取った。

それは安野光雅先生の割と新しい本で『津和野』というタイトルのものだった。

絵本の形式だが中身は先生が帰省するたびにスケッチしていた昔の津和野の風景。
柔らかな鉛筆の線で、色は本当に薄くワンストローク載せてあるだけ。

それを見て私は足元が暗くなるような気持ちがした。
色々なことをいっぺんに思い出して眩暈がするようだった。

それは私が漫画を休業してから4年か5年経ったころだったように思う。
版画を含めたイラスト集を出してもらえることになって、その対談ページで誰と話したいかと言われてダメもとで光雅先生にお願いできないか、と答えてしまった。
お会いしたとて博学で知性の塊のような先生と何をお話しするというのかわからない。
きっと断られるだろうと思っていたら先生が快諾してくださった。

その対談が元で展覧会に行ってご挨拶をしたり、先生のアトリエにお邪魔して製作中の絵を見せていただくという長年のファンとして転げ回るほどの僥倖に恵まれたのだが、そのうち知り合いの編集者から、
「光雅先生がモヨコさんと一緒に絵の本を出したいとおっしゃっている」
という連絡をもらった。
マジか…。
自分の寿命が尽きるお知らせなのかと思うほどのありがたいお話。
もちろん即答でお願いして話がまとまり、まずはスケッチ旅行に行こうということになった。

その時の体験はまさに夢のようなものだった。
先生のよく行くスケッチポイントに向かい、一緒にスケッチしながら
コツややり方を教えてもらって自分なりに描いてみるのだ。
私は自分が描くのも忘れて先生の手元を見に行ってしまった。
鉛筆でさささと山の稜線を引いている。
一つもためらいがなく、何も自分に課しておらず、体全体に一切の余計な力が入っていない。
仙人みたいだな、と思った。
その絵自体はまるで空気を転写しているようなうっすらしたものなのだが、部屋に帰って色をのせていくと、さっき見た山々や川の流れが淡い色調で現れる。

ふわっと柔らかい筆致なのに確実で、見たらすぐどこかわかるのに、どこか遠い国のようにも思える先生独特の絵の世界だった。

待ち合わせ場所に現れた先生の胸元に下げたメガネにお昼に召し上がったらしきチャーハンが乗っかっているのを見つけて、みんなで大笑いした時の先生のニコニコしたお顔を今も覚えている。

私も先生の見様見真似で、それでも自分なりの絵を描いて見ていただいた。
すると先生は拍子抜けしたように
「うーん。あなたは意外と描けてしまうね」
とおっしゃった。

先生は私の漫画は「オチビサン」という新聞に載っていたものを読んでくださっていたのだが、その印象から「大きな絵などは描けないけど絵が好き」な人間と認識されていたようだった。
なのでそんな絵が全く描けない人でも描ける親切水彩教室、のような本を作ろうとされていたのだった。

よく考えてみたら私のようなものとの共著という時点で「なぜ?」と疑問に思うべきだったのだが、嬉しすぎて考えが及ばなかった。
もちろん私が教えを乞う形のものだと思ってはいたのだけど
先生の想定するより私は多少画力があり、かといってそこで路線を変えて絵について先生と質疑応答するというほどには今度は技術も知識も全く足らない。
まさに帯に短し襷に長しである。
元から浮き沈みの激しい時期だったのもあって旅行から帰って、ラフスケッチだけで色のついていない風景画をしまったまましばらく寝込んでいた。

一所懸命にそれでもやればよかった、と今はとても思う。
しかしその頃の自分には圧倒的に気力がなかった。
そして上手に描かない方がいいのか、かといってわざと下手にも描けないし……と、悩み出していた。
どう描いていいのかわからない。
スケッチ旅行で描いたものは完成させてまとめて出しましょうと言う編集者からの提案になかなか答えられないでいるうち何年も過ぎてしまった。

その後も先生には何かとお電話をいただいたり、葉書でのやりとりが続いていたけれど、私はずっと自分の力不足というか中途半端さで、頓挫してしまった本のことが棘となって胸に縦から斜めに刺さっているのを感じていた。

「津和野」はそれらを一瞬で私に思い出させた。
夫の手にあるその本を私は震えるような気持ちで手に取って「ああ」と思った。
スケッチ旅行で目にしたような、「とにかく描いて行く」スタイルの先生のふわっと置いてあるようなタッチの風景がそこにあった。

それを手に宇部のホスピスに義父のお見舞いに行ったのは初夏の頃だっただろうか。
義父はそれを受け取るとページをめくりながら
「おお、これはあそこじゃ!」
と言いながら一ページ一ページを確かめるよう、涙を浮かべながら読んでいる。
光雅先生と義父の生活圏はほとんど同じだったようで、見ればどこだかすぐわかるのだという。

義父は夫に見せるようにして本を広げ、小さい子供がするように指をさしながら色々説明していた。
夫はそんな義父の横で静かに「うん。うん」と話を聞いている。

その様子は照明のせいもあるのか全体的に薄墨がかかって見えて、滲ませるように描いた水彩の絵のようだなと思った。

夫と義父の関係は幼少期から決して良好なものではなかったけど、本当に最後の方は毎週のように宇部にお見舞いに行くようになっていた。
話をするわけでもなくじっと横に座って、静かに二人の時間を過ごしていた。

義母や義妹、私などは適当なおしゃべりをして、場の雰囲気を明るくしようと努めていたけど、本当は自分たちが耐えられないからそうしていただけで、必要なかったのかもしれない。

ホスピスに入った時点で残された時間は限られていたのだが、その中で義父の足跡を夫が踏みしめるようにして、距離が近付いて行ったのはこの絵本のおかげも大きかったと思う。
明らかに生活と人生の中で、人と人をつなげ心の中に道を作ってくださった。
少なくとも私たち家族にとって忘れ難い一冊があるのだ。

改めて光雅先生の作品の力に深く感謝して、ご冥福を祈りたいと思う。

・・・

初出:ユリイカ2021年7月臨時増刊号 総特集=安野光雅

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