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ループの結び目,代入-グエン・チン・ティ《47日間、音のない》@森美術館

 森美術館で開催中の「MAMコレクション018:グエン・チン・ティ」(-9/1)。

 4月27日にアーティストトークに参加して、しかしそのままになっていた。

 トークはとても興味深く、コンセプトのようなものは、なんとなくつかめた気はする。しかし作品空間に入り込むと、その中に深く沈んでしまって、なかなか言葉にならないし、すっきりしない。

 それほどに、魅力的で、ふしぎな作品だ。最近になって再訪し、4回ほど連続で作品を鑑賞した。


作家名・作品名:グエン・チン・ティ《47日間、音のない》
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ライセンスの下で許諾されています(本記事、すべての作品写真について同じ)

30分、2スクリーンの映像作品

 まず作品を説明するならば、ウェブサイトからの引用(下記)の通りだ(若干のネタバレをゆるしてほしい。もちろん、ネタバレがあったとしても、作品鑑賞を妨げるものではないと思う)。

タイトルの《47日間、音のない》は、フランスの作家で映画監督のクリス・マルケルの代表作「サン・ソレイユ」を意識させる一方で、実際にはハリウッド映画「地獄の黙示録」が撮影されたフィリピンの河川から中央ベトナムの河川へ徒歩で移動した場合にかかる時間を示しています。多くのベトナム映画が風景の類似したフィリピンで撮影されていることもあり、コロナ禍中にインターネットで調べたその時間は国境を越えられない時期の非現実的な距離感と親近感の双方を想像させるものでもあるでしょう。

同上

 会場に入ると、まず入口を背に、右奥に大きなスクリーンがあり、

 左手を見れば、これも大きなワイドスクリーンがあり、それぞれ別の映像が流れている。

 視点を戻して右スクリーンの奥を見れば、もう一つスクリーンがあるようにも見えるのだが、これはたまたま左スクリーン画面がガラスに映りこんだもの。この展示室ならではの特徴であり期せずして作品を面白いものにした、という意味のことを、森美術館館長も語られていた。

記憶を奪われた男の話

 断片的な情報をつなぎ合わせれば、これは、深いジャングルの中で一人彷徨い、「彼ら」に記憶を奪われ退行を余儀なくされた男の話だ。(男は、文明が発展した世界からやってきた、とほのめかすような記述もある)

 「彼ら」は男を死に至すために自然の中に放つ。村人はそんな彼を救い、村の掟や知識を与える。しかし彼は…。

 これらは、テロップとその翻訳文で示された断片情報のつなぎ合わせだ。ストーリーは、あるようで、ない。画面で示されるのは、だれかの視点を通してのものであり、連続しているのかはわからない。

作品制作の過程でアメリカ映画やベトナム映画に使われた木々や植物、空などの背景やコオロギ、鳥、水の滴る微かな音などを丹念に切り取り、同時に地域の先住民族などの楽器が奏でる音のなかから自然界の音に似たものを抽出。それらを新作インスタレーションにおける映像やサウンドトラックで前景化しました。彼女はさらにベトナム中央高原で死者を祀る儀式に人々が集まるなか、ジェイライ村の村民たちが人間の眼を持たない男について語る映像も撮影し、作品に編み込んでいます。

複数のスクリーンとサウンドが同期する映像インスタレーションをグエンは1960年代に考案された「拡張されたシネマ」という言葉で呼び表し、スクリーンの映像、ストーリーテリングと鑑賞者という従来の映画体験に新たな挑戦を試みています。

同上

作品の「中」に居ることに気づく

 観ているうちに観客は突然、これらが映像だけでなく、空間のインスタレーションであることに気づくことになる。

 天井からのライトが突然存在を示して、

 空間全体に、映像を投影しはじめる。

 熱帯の映像が、ぐるぐると空間を巡る。スピーカーから聞こえてくるのは、臨場感のある自然音だ。

 そして闇。

 自然が奏でる音が激しさを増し、だれかの息遣いまでも聞こえる。まるで自分が、ベトナム戦争を描いた作品の兵隊の一人となって、密林を彷徨い歩いているような気分が襲ってくる。

ループの「結び目」

 途切れることなく続くループのなかで、どこが作品にとっての「はじまり」か「終わり」かはわからない。どの場面から入室してきた場合でも、意味のとれなさに戸惑い、「よくわからない」と言いたげに首をひねりつつ、早々と退出してしまう人々も多かった。

 しかし、気になりだすと嵌っていくのがこの作品の特徴のように思える。実際に、じ~っと長い間、何周も鑑賞している姿もちらほらあった。

 そして映像を鑑賞しつづけ、何周かしているうちに(30分の作品だから、それなりの時間は要する)、「ああ、ここが『結び目』かもしれない」というところが、見えてきた。

 その「結び目」を意識して、つながっていた結び目をほどいて、自分のなかで1本の線にしてみた。なるほど、そういう構成なのかもしれないな、と合点がいった。あくまでもわたしの解釈だけれど。

作家のプレゼンから

 4月27日のアーティストトークでは、作家自身から、作品のヒントがいくつか示されていた。拡張された映像作品、数々の(ベトナム戦争をテーマとした)作品からの、人物が入っているシーンをきれいに切り出す作業(残りはおのずと、密林といった自然風景のシーンとなる。もっともそれは、ロケ地が別の東南アジアの国というように、ベトナムからの距離感も著しいのだけど)、それから……。

そして代入

 わたしがなぜ、この作品を何度も観たのかといえば、それはこの作品に、代入というそもそもの意図があるのではないかと勝手に感じたからだ。

 暗闇の空間に、ジャングルの中を恐れながら、息を殺して、しかし呼吸音や足音が立つことは止められずにやむなく進む。暗闇から映像を目にすれば、そこには人物だけが意図的に切りとられた映像が流れ、否応なしに物語に引き込まれていく。しかも、前後関係がまったくわからない。それはそうだ、「自分は」記憶を奪われているのだから……。

 作家はこの作品のなかに、観る者に役割を用意してくれている、ように思う。それを受け入れるのは自由なはずなのだが、抗えない力によって、その役割の中に嵌っていく。

 「男」はいつしか「わたし」になっており、映像は無限ループする。作品には、終わりがない。



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