見出し画像

認知症の祖母に、なぜ怒ってしまうのか

コーチングで何話すんですか?とよく聞かれるが、何を話してもいいと思っている。わたしの場合、セッションの日にモヤっていることをそのまま場に出すことが多い。

今日の相互セッションでは、直前に祖母と揉めていたので何かのご縁だと思いその話を。たくさんの気づきがあったので、読み返せるように残しておきたいと思う。

そもそもなぜ揉めたかというと、一緒に昼食を食べに行く予定を祖母が忘れたからである。これだけ聞くと、認知症だとわかっているのになぜそんな小さなことで怒るんだと言われそうだが。

お昼前に母が出かけようとしていた。今日はお昼は食べてくるね、お父さんもお昼いらないからばあばとのんちゃん2人だよ、と言われる。

うちは父がリモートワーク、定年退職した母はパートタイムで働いているので昼は大抵4人揃って食べる。祖母と2人なんて相当珍しい。

久しぶりの2人ランチに舞い上がったわたしは、「2人でお蕎麦を食べに行こう」と祖母に声をかけた。「おお、いいねえ」とにっこりする祖母の笑顔はやっぱり今日も可愛くて、鴨南蛮にしてやろうか、地魚の天ぷら蕎麦にしようかとほんの少しの贅沢に思いを巡らせ始める。

が、問題はランチタイムのミーティングだった。あと数分でzoomに入室し、1時間は部屋に篭る。その間にすっかり忘れてコンビニでご飯を買ってきてしまったりしないだろうか。机の上にパンがあったからあれを食べてお腹いっぱいだと言うかもしれない。

「今から1時まで打ち合わせがあるんだけど、ばあばお腹空くかな?」ちょっぴりさみしい気持ちになりながら聞くと、「1時間くらいなら日向ぼっこして待ってるよ〜」とのんびり返される。「ほんとに?忘れてコンビニに買いに行ったりしない?」「しないしない、待ってるよ〜」周りにお花が見えそうなにっこり笑顔で手を振る祖母に見送られて息をついた。

ノートパソコンを抱えて2階の部屋でzoomを始めた10分後、12時10分。1階から玄関の戸を開け閉めする音が聞こえた。ガラガラガラと閉まるシャッターの音と一緒に、わたしのなかの何かもガラガラガラと崩れていったような気持ちがした。

気が気じゃないなか1時間のミーティングを終え、1階の居間へ行くとテレビを見ながらお寿司を食べていた。「一緒にご飯食べに行こうって言ったじゃん!」冷蔵庫を見てもわたしの分のお寿司はなくて、「あたし1人だから買ってきて食べちゃおうと思ったの」と言われる。

ごめんね、が欲しかった。ごめんね、一緒に行こうって言ってたの忘れてた、とか。ごめんね、すっかり忘れてたけど悲しい思いさせたよね、とか。

祖母は、一度もごめんねを口にしなかった。なぜなのかはわからない。わたしが自分1人で買ってきたお弁当を開けて、2人分のお茶を淹れて渡しても、ありがとうもなかった。「これわたしの分?」とだけ聞かれて、そのまま飲んでいた。なんで?なんでこうなるの?

なんだか何もかもが虚しくて、ウキウキしていた自分が馬鹿すぎて、あれだけ言うんだから覚えているだろうと期待した自分が健気で可哀想で、とにかく自分はひとりぼっちだと思った。

わたしだけが覚えている。なかったことになっている。わたしと過ごした時間、わたしと話した時間、わたしと笑い合った時間、忘れてなかったことになるのに一緒に過ごす意味があるんだろうかと疑念が生まれてくる。

小さい頃育ててもらったからその恩返しだなんて、そんなの綺麗事だという声がしてくる。だって、子どもはこれから大人になるから。どんどんできることが増えていくのがわかっているから。

祖母はこれからできないことがどんどん増えていくのが目に見えてわかっている。デイサービスに行きたくないと抵抗する日々が重なるたびに、ぼうっと外を眺めて溶かしてしまう日が増えていく。

わたしの覚えている祖母は、目が覚めるとお味噌汁と焼き鮭と準備していて、ホカホカの白ご飯をよそってくれる。家の掃除や片付け、お洗濯やお買い物、家事がとっても得意でテキパキとこなして昼下がりはのんびり過ごす。夕方になると日替わりの夕飯を作ってくれて、美味しく食べたらおしゃべりしながら一緒にお皿を洗う。

今、祖母は料理ができない。順序立てて何かに取り組むことが難しく、ひとつひとつの作業しかできない。無気力気味で、部屋はどんどん荒れていく。物の置き場所を忘れていて片付けができない。うちからばあばの影が少しずつ薄れていっているような気持ちがする。

年をとるって、なんなんだろう。長生きすることが本当に幸せなんだろうか?わたしもこうなるのか?大事な家族の負担になるのか?じゃあ家族ってなんなんだ?結婚して子どもを産むことも、その子への負担を生んでいるのか?ぐるぐると考え始めると絶望感で涙が出てくる。

もちろん、おじいちゃんおばあちゃんになるまで生きていられていることは当たり前じゃないとわかっている。兄が30にも届かず死んで、「生きてるだけで儲けもん」の意味を知ったから。祖母が80過ぎまで元気でいてくれているのはすごく尊いことで、感謝してもしきれないこと。

祖母にはなるべく元気で長生きしてほしい。けど、わたしは?わたしもわたしに長生きしてほしいと思う?こんなに大好きなばあばでもこんな気持ちになるのに、わたしはわたしにこれを祝福できるだろうか。

祖母にぶつけていたことばが、いつか自分に返ってくる。そこまで見えていて、未来が怖い。生きることは尊いことなのに、今わたしが抱えている気持ちはそれを否定しているようで。

祖母も、そのうち父や母も、どんどん忘れていく。みんながどんどん忘れていく世界のなかで、わたしはそのうち本当のひとりぼっちになる。先が真っ暗な行き止まりだとわかっているのにその道しか選べないような、空虚な画が浮かんでくる。

これからも、ずっとこの気持ちを抱き続けるんだと思う。先日もらった「大切なものを大切にしてね」ということばが響いてくる。わたしにとって大切なものはなんだろう。

わたしは、わたしのことも大切だしばあばのことも大切なんだよ。ばあばのことを大切にしてあげたい気持ちより先に、自分のことを許して、満たしてあげられていないと苦しくなる。怒りたくなるし、泣きたくなる。

「よく頑張ってると思うよ」と声に出してわたしに言ってみた。「よく頑張ってると思う、苦しいよね」声に出して言いながら、ぽろぽろ落ちてくる涙は少し軽快な気がして笑えた。

苦しいときは、苦しいって言ったらいい。けど、どこで誰に言うかは大切だ。わたしは、わたしのなかに答えがあると信じているからコーチングという場でこれをテーマにあげた。母に言ったら?友人に言ったら?返ってくることばや反応に、また全く違う気持ちになっていただろう。

今日、認知症の祖母に怒ってしまった。だからって、怒らないようにするにはどうしたらいいかアドバイスが欲しいわけじゃない。可哀想だねと同情してほしいわけじゃない。わたしは、わたしの声を聞いてあげたかったんだ。

そう気づけた今は、少しすっきりした気持ちでこのnoteを締めにかかっている。今日も一日お疲れさま、明日もいい日になりますように。おやすみなさい。


この記事が参加している募集

最近の学び

ことばを学ぶ修士卒、コーチングとブランディングをナリワイにしています。いただいたサポートは、ナリワイをアップデートする学びや、毎日noteを心地よく書き続けるための暮らしに投資します。最後まで読んでくださってありがとうございます💌