『清史稿』「緬甸伝」孟艮

【原文】

孟艮本緬属、距普洱千余里、土司召孟容与弟召孟必不相能。召孟必之子召散譖召孟容於緬、緬人執之、其子召丙走南掌。尋入居於十三板納之孟遮、召散因令素領散聴・素領散撰・素領党阿烏弄等犯打楽、分侵九竜江橄欖壩、車里土司遁去、賊入拠其城。総督劉藻檄大理順寧営兵七千往剿、遊撃司邦直先進、為賊人所囲。会参将劉明智至、夾攻破之、乗勝復車里土司城。進攻猛籠・猛歇・猛混・猛遮諸塁、連破之、然賊往往竄伏屯聚、未肯即退。藻議益以曲尋・楚姚兵二千、未至、而参将何瓊诏・遊撃明浩等聞猛阿為賊所攻、遽率兵過滾弄江、束器械以行、不設備

入山遇賊、兵敗、詔論斬。時乾隆三十年也。


【書き下し】

孟艮本緬属なりて、普洱と距てること千余里、土司の召孟容と弟の召孟必相い能わず。召孟必の子召散召孟容を緬に譖り、緬人之を執り、其の子召丙南掌に走る。尋ねて十三板納の孟遮に入居し、召散因りて素領散聴・素領散撰・素領党阿烏弄等に令して打楽を犯さしめ、分けて九竜江の橄欖壩を侵さしめ、車里土司遁去し、賊其の城に入拠す。総督の劉藻大理順寧営兵七千に檄して往剿せしめ、遊撃の司邦直先に進むも、賊人の囲む所と為る。会して参将の劉明智至り、夾攻して之を破り、勝に乗じて復た車里土司城す。猛籠・猛歇・猛混・猛遮の諸塁に進攻し、連ねて之を破り、然れど賊往往にして竄伏屯聚し、未だ即ち退を肯ぜず。藻議して益するに曲尋・楚姚の兵二千を以てすも、未だ至らずして、参将の何瓊诏・遊撃の明浩等猛阿賊の攻むる所と為るを聞し、兵を遽率して滾弄江を過ぎ、器械を束ね以て行き、設備せずして入山し賊に遇い、兵敗れ、詔論して斬らる。時乾隆三十年なり。


【現代語訳】

孟艮はもともとビルマに属し、普洱と千余里距てており、(孟艮)土司の召孟容と弟の召孟必はお互い仲が悪かった。召孟必の子である召散は召孟容をビルマで誹ったので、ビルマ人は召孟容を捕まえ、召孟容の子である召丙は南掌に逃げた。(召丙は)十三板納の孟遮に居住したので、召散は素領散聴・素領散撰・素領党阿烏弄たちに命令して打楽を攻撃させ、(軍を)分けて九竜江の橄欖壩を侵略させたところ、車里土司は遁走し、賊(素領散聴・素領散撰・素領党阿烏弄たち)は車里土司の城に入城した。総督の劉藻は大理順寧の営兵七千に檄を発して(賊たちを)殲滅させ、遊撃の司邦直が先に進んだが、(司邦直は)賊人によって包囲された。会議を開き参将の劉明智が救援に向かい、挟み撃ちで賊を破り、勝に乗じて再び車里土司が城を築いた。猛籠・猛歇・猛混・猛遮の諸塁に進攻し、連続でこれらを破ったが、賊は潜伏して集まり、いまだ退却することを良しとしなかった。劉藻は会議を開き曲尋・楚姚の兵二千をもって進軍したが、まだ到着しないうちに、参将の何瓊诏と遊撃の明浩等が猛阿が賊に責められていることを聞き、兵を急遽率いて滾弄江を過ぎて、器械を束ねて進軍したが、準備せずに入山して賊に遭遇し、敗れた。(何瓊诏と明浩は)詔論を受けて斬られた。その時は乾隆三十年であった。

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