研究の話

こんにちは!アルドラです!
修論の提出が12月末でかなり切羽詰まってきた!一応書けてはいるんだけど、推敲するうちに自分の主張したいことがブレていく感じあって、それを固定するためにnoteに研究の話を書いていきます(修論書くのがしんどいから別のところで何か書きたいのもある)!歴史学の知識がなくても高校の世界史レベルの知識があれば理解できるので、ぜひ読んでみてください!

1、はじめに
僕の専門は東南アジア史で、その中でも中国とミャンマーの国境地帯に13〜20世紀半ばまであったチェントゥンという王国を研究してます。さっきミャンマーと中国の国境地帯って書いたんだけど、チェントゥンを建てたのはミャンマー人でも漢人でもなくタイ族です。

チェントゥンの位置はここ!

何度も繰り返すけど、チェントゥンはミャンマーと中国の国境地帯にあったからミャンマー語史料、漢文史料の双方に記録が残ってて、チェントゥン自身もタム文字っていう現地の文字でタイ語の年代記を残してるから、チェントゥンの歴史研究には中国語、ミャンマー語、タイ語の能力が必要で、研究者の言語運用能力の問題とかでまだあまり研究が進んでない!そこを進めていこう!というのが僕がチェントゥン史を研究する理由です。

2、近世って何?
じゃあチェントゥンの歴史の具体的に何を研究してるの?って思うかもしれないんだけど、18世紀の近世史を研究しています!
まず近世という時代区分に関して、日本史だと古代→中世→近世→近代→現代って感じで教科書が書かれていたと思う。古墳とか埴輪が古代で中世は貴族とか武士、近代は明治維新とかのイメージはつきやすいと思うんだけど、近世って具体的に何かを説明するのはちょっと難しい。特に東南アジア史に関してそもそも時代区分があるの?って思う人もいるかもしれない。
そこで近世を一言で表すと「国のまとまりができ始める」時期と言える(ものすごく乱暴だけど)。日本史だと豊臣秀吉が天下統一して日本というまとまりができ始めて、それが江戸時代にかけて定着していって明治維新(近代)になるイメージ。近世にはこのような国としてのまとまりが生まれるってことを前提として、近世っていう時代区分を東南アジア史に当てはめると、18世紀半ばから19世紀後半にかけてのコンバウン朝ビルマ、ラタナコーシン朝シャム、阮朝ベトナムの時期になるのではないかっていう説が1990年代に提唱され始めた。その時代区分論をチェントゥンにも当てはめられるのではないか?っていうのが僕が修論で主張したいことです。

3、チェントゥンの近世
具体的に18世紀のチェントゥンで何が起きたのかっていうと、大きく分けて3つある。
一つ目は経済の発展。18世紀の東南アジアでは中国の人口爆発(1億人から3億人に増えたとする推計もある)を背景にして中国人移民の流入が進んだ。その結果鉱山が開発されたり商業が発展したりしてチェントゥンの経済は急速な成長を見せた。これを王の副葬品の大規模化や中国人商人の活動の記録から立証していくのが修論の第一章!
二つ目は戦争。さっき述べたように中国人移民の流入は良い面だけじゃなくて現地の政権との軋轢を生んだりして、1765年に中国とミャンマーの間で戦争が起きた。その狭間にあったチェントゥンは中国やミャンマーの軍に占領されたり、その間でうまく立ち回って自勢力を拡大したりしたんだけど、そういった状況に置かれているうちに漢人でもビルマ人でもない、チェントゥン人としての民族意識が芽生えてきて、2の近世って何?で述べたような国としてのまとまりができ始める。このことを第二章、第三章で述べる予定!
三つ目は年代記の編纂。18〜19世紀のチェントゥンでは年代記や法典の編纂が進んで、祖先神話が書かれるようになったり、ミャンマー人とチェントゥン人の間で刑罰に差が生まれたりするようになったりする。
これら三つの現象を背景として18世紀にはチェントゥンにおいて国のまとまりができ始めた!という主張が修論の骨子です。本当はもっと細かい話もしたかったんだけど、簡潔に書けなくて断念!

ここまで読んでくれてありがとうございました😊

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