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自称アーティストはアーティストになることを自分で選んだということを忘れんなよ。作品の責任を取れ。

真面目な人をメンヘラと言ってバカにする人がいるが、感性が腐ってるからそういうことをやる気がする。
まぁ誰かを嗤って安心したいというのは弱さだと思います。

強いとか弱いとかって結局何なんだろうと思ったりもするが、自立とか自律とか自制なんだろうな。ゴリ押しするだけが強さではない。
何度か挙げているが、松岡正剛『フラジャイル 弱さからの出発』という書籍がある。脆く儚く弱いとされる存在は、時にけっこー人目をひいてしまったり、惹きつけられるものがある。それ故にリンチされたりすることもあると思うが、人の関心を惹きつけるという強さを持つ。
わたしは昔から悪目立ちしてしまうことが多く、学校でも家でも何かと矢面に立たされ責められることが多かった。バンドやったり絵を描いたりしていく中で、悪目立ちするという特性をうまく使えば注目させることも出来た。しかしやはり、普通の社会生活の中では目立たない方が楽に生きられる。いつもそのバランスの中で苦しんでいる。今はなるべく目立たないように地味に、見た目や行動を自制している。それでも目敏い人に見つかり槍玉に上げられることはある。わたしはどうしてもはみ出る。そして多くの人は出る杭は打ちたいもののようだ。多様性だ何だ言っても人間はそういうものだという諦めがある。
わたしは発達障害があってセクシャリティが曖昧で、と説明すれば今時よくあることなのだが、わたしが何度も「わたしはみんなと同じただの人間です」と言っても多くの人と同じに扱いにはなれないと思う。踏みつけていい相手としか認識されないだろう。真面目にやるだけ損だ。

そして某アーティスト村の話になる。今はどうか知らないが、わたしが入居した頃は真面目にやるほどバカにされる雰囲気があった。入居者や周辺人物と仲良くすれば足を引っ張られるような場だと思った。しかし距離を取っても必要な連絡をもらえなくなったりハブられるだけだった。わたしはただ、絵を描くために来たので絵を描いていた。その辺りの人と遊びに行ったりしなかったので、病んでるキャラとかメンヘラとか言われた。まぁバイトもあるしそんな遊べなかったけどな。わたし以外の人たちで出かける話も、なにも回って来なかったが自分の時間を削るのは嫌だし結果的に損はしていないと思う。ただ事後報告でクソみたいな土産話を聞かされるのは苦痛ではあった。
その某アーティスト村の住民の1人にはだいぶ世話になった。彼女はほぼ素人だった。引いた目で見るとわたしも素人みたいなもんだが。ある時彼女はわたしに「くねちゃんはどうしてキャンバスに描くの?」と質問を投げてきた。わたしは保存性の観点から真面目に答えてしまった。支持体も画材も保存性を考えて選ぶべきであると。わたしが死んでも作品にはなるべく永く残ってほしいという気持ちがあったと思う。
彼女は「ダンボールでもなんでも描ければいいじゃん、古いことしたくないよw」と鼻で笑った。彼女がよくやる笑い方だ。アンタじゃ話にならない、というのを相手にわからせるためのやり方だと思う。無意識だろうけどな。
80年代ならダンボールは新しかったろうが、今更何を言っているんだろう。新しくはないし、もしその作品を買ってくれる人がいたとして、その人にいらぬ保存のコストをかけさせることになる。でもまーそういう話をわたしはしなかった。彼女がただわたしに反発したいだけでそういう態度をとっているのがなんとなくわかっていた。なぜ反発したいのかまではその時はわからなかったが。
数年越しに知ったが彼女は目立ちたかったのだという。どうしても有名になりたいと息巻いていたのだと。
正直、今時まともなことをやって目立つのは難しい。特に絵画なんて何も新しくない分野だ。その中でまともなことをやって目立つのはマジで難しいだろう。絵画なんかやめて、セクシーな格好で踊ってTikTokにでも上げた方が有名になれる。
某アーティスト村にいればなんとなく地域の中で目立つことはできた。彼女はそんなことにはなんの価値もないと気づいたからそこを出たんだろう。有名になれるといいね。きちんと自分と向き合って作品を作り続けられたらもっといいね。そこはただ応援してる。彼女がわたしを取るに足らない病んだ人間だと見下していることを知っているし嫌なこともされたと思っているけど、わたしも彼女も結局絵画を選んでいるという共通点があるからだ。わたしが相手の発言を未だに覚えていることも、その上でのこんな勝手な発言も全部、ただのクソだとは思うけどな。でもきれいなものだけが誰かを救ったり幸せにするワケじゃないんだわ。。

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わたしは描きたいものが描けないのが嫌だったから技術をつけるために絵画の勉強を始めた。2009年頃のことだ。
身体が変わり少し技術がついたら描きたいものが描けなくなった。頭が固くなったんだと思う。今やっとその呪いから解かれて、頭もくにゃくにゃになって多少は描きたいものが描ける自信がついた。消しても捨ててもまた描ける、前よりもっとよく描ける、という程度の自信だ。描くことに対しての苦しみはずっと続いている。
地元にいた時に「作品で言いたいことなんか何もない」と発言する人たちがいた。どうもそれがかっこいいという雰囲気さえあった。適当にやってそこそこ完成させられる我々、いけてるでしょ、真面目にやってその程度なの笑える、ていう。アレ何だったんだろうなぁ。わたしは何も言い返す勇気がなかったけど、なんとなくで適当に中身のない作品を作る方がダサいと思う。作品にお金を出してくれた人の前で「こんなのなんにも意味ないんですよ、表現したいことなんてなんにもないですよ〜」なんて言えるのか?言えるとしたらすげー度胸だな。
自分が生んだ価値に対してお金を出してくれる人がいる。そういう人たちに失礼がないように作り続けるのが、作る人になることを選んだ自己の責任だと思う。自称アーティストはその辺を胸に刻むべきと思う。てかわかんないとか忘れちゃうならいつでも見えるところにtattoo彫るしかねぇ。。
「わたしはアーティストになることを自分で選んだ」と。それはそれでいいな。わたしもtattoo彫る機会があったら彫るわ。

生きていたいし絵を描きたいし文章書きたいしごはん食べたいと思う。