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人のために動くこと、損得、自由であること。

わたしはレモンさんとよく煙草を吸う。ローソンで、セブンで、温泉の前で。レモンさんは危ういところのある女で、ぱっと見は少し暗く、あははと笑うタイプではない。彼女はニヤッと笑う。前髪で眉毛が隠れている。しかしモニャモニャしたタイプに見えるが思い切りがよく、意外とものをハッキリ言う。声が爽やかだから嫌な感じがしない。しょーもねーと思うところもあるがここには書かない。

わたしは彼女の引っ越しを(たいしたことはしていないのだが)手伝っている。なぜ手伝っているのかわからない。わたしは何も得をしない。得をしないのに時間と労力を割いて人の引っ越しを手伝っている。今日はおじぎさんも手伝わせた。おじぎさんに関しては全く手伝う義理はない。おじぎさんとレモンさんは花見のときに一度会っただけなのだ。

ひとつひとつの選択、すべての行動にメリットとデメリットがある。レモンさんの引っ越しを手伝うことにはメリットもデメリットもない。得をしないが損もしない。いや、タイムイズマネー論者にとってはバリバリ損をしていると言われそうだけどそんなのかんけーねー。この行動により好かれたいとも嫌われたいとも思わない。
大人になるとこういうことは貴重であると思う。

ある人が、「人のためになにかするのが好きだが結局いつも軽んじられ人が離れていく」というようなことを書いていた。言わんとしていることはわかる。過去わたしもホモ・サピエンスに対して片思いをしていたようなものだからだ。今はそこまで関心ないけど。
わたしは人のためになにかするのはそんなに好きではない。奴隷みたいで楽しくないし、意味がないからだ。ただ、楽しく過ごせる相手と楽しく過ごしたいだけだ。楽しい事の中に引っ越しの手伝いが含まれただけなのだ。だって一緒に作業してたらいろいろ喋るし作業終わったら煙草吸ったりからあげ食ったり出来るし。畑に行くときもそう。そういうことのために生きてると思う。

まぁ社畜というスラングがあるように、奴隷の状態でいることに対して不満を持ちつつも甘んじるのが普通とされている社会なので、そのようなメンタリティの人は多いのだろう。ただ、それはプライベートの人間関係で必要なことなのだろうか。だって会社の人と接するみたいに友達と接するわけ……?

この辺の感覚について一つ注釈を添えたいのは、わたしは幼少期に奴隷英才教育を受けた者だということだ。女として生まれたが故、幼少からしばしば女中として扱われ、常にそれに反発してきた。女は家のことを手伝って従順な奴隷として他家に引き渡される。アレだ、川上未映子の本に出てくる労働力つきまんことかいうパワーワードな。アレよ。
一応こき使われる従順なメスというものをある程度理解した上でこの文章を書いている。自ら奴隷になるなんて時代錯誤も甚だしいと思う。楽しい方を選べばいい。
て、以前弟から「楽しいを基準にものを選ぶのは愚かだ」とか「お前が楽しく生きる資格はない」とか言われたけど、わたしが言うわたしの定義での楽しいてのは享楽に耽りたいとか楽して得したいとかではない。自分の頭で考えて自分と周りの人のために動く自由がある状態ってめっちゃよくない?的な意味で言っています。それぞれの個人がそれぞれの思考と選択でWIN WINな感じになれたらそれはめちゃくちゃ楽しいだろうよ。

わたしは、自分が社会貢献できてないなと思うときは献血に行くことにしています🖕(気分が悪くなって看護師さんに献血向いてないねって言われたのも一度ではないのだが)


てかやっぱ実家関係の人物について思い出すと、思い通りにいかないと意味不明の暴言吐くやつばっかで笑える。わたしはそういうガキみたいな人とは友達にはならない。マジ関わりたくねー。。

生きていたいし絵を描きたいし文章書きたいしごはん食べたいと思う。