20240821_真夏の日記
質問・感想・苦情・叱咤激励は以下から。
最近読んだ本
渡邉雅子『「論理的思考」の社会的構築:フランスの思考表現スタイルと言葉の教育」
めちゃくちゃ面白かった。専門書なのだが、自分がここ数年読んだ本のなかでトップになるかもしれない。
そもそも「論理的思考」というものが「実在」するわけではなく社会的に「構築」されたものである、というのが大きな気づきだ。「論理的」であるとは「読み手にとって必要な部分が読み手の期待する順番に並んでいることから生まれる感覚」であり、それは自明なものではない。
フランスの思考表現の例として「ディセルタシオン」が取り上げられる。日本でいう「小論文」、アメリカでいう「エッセイ」だが、「論理的」であると評価される正解の形は大きく異なり、「正ー反ー合」の弁証法を基本構造にしている。この形は幼少からの一連の学校教育の中で叩き込まれ、市民教育・合意形成にも接続しているのだという。
日頃の生活が「論理的」という言葉に支配されている中、「発見の連続」という感じで、頭が揺さぶられる本だった。4,000円は安すぎる。姉妹本?の『「論理的思考」の文化的基盤ー4つの思考表現スタイル』も非常に面白いそうで、読んでみたい。
日記
8/19(月)
お盆休みが終わる。早速忙しくてダルいなあと思うのだが、年上の人がいて、同世代の人がいて、年下の人がいて、それぞれ忙しそうに振る舞っていて、その人らに囲まれて少し生きた心地がする。結局、僕は社会の中で生かされている。
でも、やれ契約だの協業だの顧客だの、同世代の人がビジネスに関する一丁前なコトバを使いこなす隣で、僕はそういう人には中々なれないなあと思う。使えているのかもしれないし、そういう人として演じることも出来るのかもしれないが、内面化することは出来ない。裏でグチグチ酒を飲みつつ、表でそういう人を華麗に演じれば良いだけなのだが、そういうことが出来ないのは僕がオトナではないからだし、拗らせているからなのだと思う。「早く仙人になりたい、あるいは出家だ」と思いながら帰路につく。
最近、Duolingoでフランス語をやっている。大学2年のときに半年だけ授業を取って勉強したのだが、基礎の基礎の基礎以外スッカリ忘れてしまった。決してパリ五輪で感動したからではないし、柔道団体のルーレットを見てコノヤロウと思ったからでもない。ただ、電車の行き帰りでちょこちょこやる分にはちょうど良い。ダラダラSNSを見ている時間をフランス語勉強の時間に替えていると思うと、少し小洒落た人生を送っている気になる。
仕事だけの人生にしないぞ、と思って家に帰って勉強をするのだが、勉強をしながらうっすらと仕事のことを考えてしまう。生かされてしまっているなあ、と思う。昔はもっとスパッと切り替えることが出来たのに、何故だろう。
ヤーレンズのライブを見に行きたくて抽選に応募したのだが「お席を確保することは出来ませんでした」と連絡が来て舌打ちをする。M-1で準優勝する前からヤーレンズは僕の推しで、ヤーレンズのラジオには僕の日常会話の理想の形がある。だから余計に行きたかったのだが、これで抽選は3連敗だ。イライラしない生活を送ることが1週間の目標だったのだが、流石にこれはノーカンとさせてほしい。
8/20(火)
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