『音響派について』虹釜太郎

音響派の発見の是非には関心はない。しかし「きき方」を妨げるものはなんとさまざまに強化され続けてきたことだろう。そのことにさまざまな違和感をずっと持ってきた。

 音響派のルーツがフリップ&イーノであろうとビーヴァー&クラウスであろうとオルガナムであろうとノア・クレシェフスキーであろうとジョージ・ハリソンであろうとルス・アンダーソンであろうとギル・エヴァンスであろうとピエール・アンリであろうとジェイムズ・テニーであろうとエレクトリックなものを使用している音響自体を思考した音楽全般であろうと結果がみえない出来事に対して行われた音の実験全般であろうとノスタルジーの武装正当化のシェルターであろうとテクノロジーがインプロヴィゼーションを制限確定する/しない無意識の試行錯誤のバトルフィールドであろうと余韻とアンビの永遠のウーパールーパーであろうとポストクラシカルなサウンドスケープの大劣化の化粧の残骸であろうと別の未来になりたがっていたクラウトロックであろうとポスト・シューゲでないポスト・カンタベリーであろうと多ジャンルのフリーフォームな試みをニュートラルに継承したと思い込んだ再構築した音楽であろうと音響にこだわっているように聞こえるオルタナカントリーであろうと拮抗する夏と崩壊する夏のいずれもがうごめく/影になる/省略される/引き延ばされる離夏律の衝動であろうとアカデミックでないアコースティック音響構築的即興群であろうと意図のある微弱電子音演奏と意図のない微弱電子音演奏の勾配が再び活発化するためのなにかであろうと意図の介在しない弱い演奏全般の増幅のグラデーションであろうとゴシックなフリーインプロの危うい美しさの中二であろうと高解像度世界認識と低解像度世界認識とにひき裂かれる人の衝動をそのまま音楽にする際のひとつのすぐれてやぶれかぶれ/緻密な方法であろうと音の意味が生じる原理を音そのもののクオリティではなくあくまで構成、文脈の上に求めている実践群であろうとなんでもいいし、そこでは聴取とか集中に対して体験こそが大事という人間同士のやりとりに人間以外をあたりまえに参加させる録音をする/きくことはほとんど問題にならず、録音物ではなくて録音する機械が官能を獲得するに至る膨大な時間をミニマムな枠で達成することの変異の帯ということも感じる/考える機会はなく、さまざまな偶然な音の出会いの場の設計としての音響派の仮構には災害にまつわる問題はあらかじめ無意識の相互監視で除外され(音響派の撤退/後退にすらならない規制または狭窄)、音響派の発見や再発見と一瞬聞くだけですぐさま音響派やリダクショニズムなど到底聴く気がしないと吐き捨てるように言われることも現在において多々あるが、そこには正弦波音にワンネスやユニティを見出すことへの批判や正弦波音というものそれ自体を音楽として聴取するということが演奏の名に値しない演奏を擁護するということにつながるという批判もあったが、また全部を覚えているつもりで半永久に生煮えのパクラーの病態図鑑のような音響派の外観をした音楽たちやラク・スギファッティの強度のはるか手前での公園やフリースペースでの音響学芸会状自意識補完うなづき根っこの会のようなものを音響派というワードが無数に生んだのだという苦言/難癖もあったが、しかしそれらの音響派の発見の是非にまつわることについても、再発見されるそれのこれからの別名たちにも関心はない。ただ1990年代初頭のある時期、わたしは自分の店の音響派の棚にトッド・ドックステイダー、オッソ・エキゾチコ、グレゴリー・ホワイトヘッド、ミッシェル・ルドルフィ、デヴィッド・ダン、C.W.ヴタチェク、ジム・オルーク、ベルナール・パルメジャーニ、ブルース・ラッセル、リュートナン・カラメル、ワゴン・クライスト、ジャシント・チェルシ、ローレン・マザケーン・コナーズ、フランシスコ・ロペズ、GATE、クリス・ワトソン、ステファン・ヴィチエロ、インターシステムズ、ハリー・ベルトイア、C・シュルツ、ポール・シャッツェ、ポーリン・オリヴェロス、トシヤツノダ、クリストフ・ヒーマン、アンビエント・デラックス(マンショウの変名)、グレン・ブランカ、NON、クラニオクラスト、タマル、デヴィッド・ベーマン、シーマ、P16D4、ニーモニスツ、アヒム・ヴォルシャイト、ピート・ナムルック、フランス・デ・ワード、エタン・ドネ、スティーヴ・ステープルトン、キム・カスコーン、マーティン・ハネット、ランディ・グレイフ、ポール・パンヒュイゼン、マーク・ポーリーン、コンロン・ナンカロウ、バーナード・アーンディト、アドルフ・ヴォルフリ、アルヴィン・ルシエ、ナイジェル・エアーズ、タミア、コムス、ドリーム・シンジケート、OMIT、オルガヌム、ディープリスニングバンド、リー・コニッツ、ロル・コックスヒル、パンソニック、ゼヴ、ジョー・ジョーンズ、ビッグ・シティ・オーケストラ、アルヴォ・ペルト、ハワード・ライリー、サキス・パパ・ディミトリオ、ジョン・バランス、ララージ、ジャン・デユビュッフェ、ラリーズ、エリオット・シャープ、クリスティナ・キュビシュ、ハフラートリオ、ソビエトフランス、デヴィッド・カニンガム、プラスター、ジョン・アップルトン、ピエール・アンリ、デイヴィッド・ハイクス、フランシス・ベイル、モートン・フェルドマン、トニー・コンラッド、リョージイケダ、リー・ラナルド、タージマハル旅行団、ワルター・マルチェッティ、ミカ・ヴァイニオ、スモッグ、マイケル・ハリソン、トーマス・ケナー、スチュワート・デンプスター、クラックハウス、ユタ・カワサキ、ウラジミール・ウサチェフスキー、BULBの7インチ群、Imbalance Recordings初期作品、ジョー・ミーク、アタランスタング……を投げこんでいただけで、そこにはさまざまな(わたしの)無知と混乱がそのままにあり、可能であったなら当時そこにオスヴァルド・コルッチーノ(イタリア音響派最重要)、ロルフ・ユリウス、ジャン・クロード・エロワ(ドローンフォロワーが到達しない地点)、ヌノ・カナヴァロ(ポルトガル音響派)、カブサッキとモノフォンタナ(アルゼンチン音響派)、ピサロとカペッツェ、ラファエル・トラル、マノーラ、マコトオオシロ、ザビエル・シャルル、エロディ・ラウテン、HINDS BROTHERS、アスナ、グラハム・ラムキン、ジェーソン・カーン、Edith Hillman Boxill,C.M.T.、空間現代(イーガン以降の「ポストロック」……交替可能な無限/突然延ばされる無限で発された叫びが移行し遭遇する驚くべき先々)、サミュエル・ロジャース、マイケル・スラヴェク、トニー・シュワルツ、マサシアオヤマ(ジョン・ハートとアオヤマ、アヴァロンと東京)、Konstantin Raudive、Jacques Brodier(これらの音を「サイコティック音響派」「非音楽化音響派」「非知性主義音響派」と差別する者はいないが、差別/排除する者がいないというよりずっと無視されたまま)、ルメートルとレインハイデ(音響詩と異言の響き)、Colleen(日常音具女性音響派作家の系譜)、Feneoberg(集団電子即興の孤立と再編)、アンドリュー・ドイッチ、Buffalomckee、ミヒャエル・ザウプ、Pneumershonic、ジャック・リジョーヌ(脱力王リゼーヌではなく)、EVP(Electronic Voice Phenomenon)……も投げこみたかったがそれは無理だった。

 わたしは上記のレコードたちをその棚に投げこんでいただけであり、その店はすぐにつぶれてしまった。そしてわたしには以下のきき方が単に残った。どうしようもなく切迫されたものとして。そんなものは音の聴き方/聞いてしまい方じゃないという倫理とか、聴くことの想像は想像で事実は事実としてという名目で不安になっていることもわからない人間たちや違いのわかるリスナーたちと過ごす時間はあまりにも退屈だった。それらは最初は聴き方であったが、後に「きき方」のある過程でしかなくなり、その過程でわたしは死ぬ。

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