見出し画像

生日快乐〜張暁晨40歳の誕生日に寄せて

俳優張暁晨(ZhangXiaoChen)。
私が中国ドラマを見るようになり、運命の出会いを果たした人だ。
そう、今回は暁晨を俳優としてだけでなく、その人柄にスポットを当てたいと思う。

張暁晨は1983年9月30日生まれ。
"暁""晨"は共に夜明けを意味することばだ。
つまり、彼は明け方に元気な産声を上げ、この世に生まれた。

両親から愛をいっぱいに受け、母方の叔母さんと祖母とも同居して暮らしたせいか、賑やかに和やかに過ごし、経済的にも学業的にも、特には不自由せず成長した。

『好男儿』のとき紹介された張家口の実家
部屋中に飾られた写真で、愛をいっぱい受けて育ったことがわかる

取り立てて得意なこともなければ、勉強が好きなわけでもない、マスクがいいし来る者拒まず、のモットーで女の子にも全く不自由のない、至ってフツーな毎日、叔母さんが会計士だったためか、フツーに地元の工業系大学会計課で簿記をテキトーにこなす日常を、ある日変えたのは地下鉄でのVOGUE誌記者のスカウトだった。

母校の友人たち

生来明るいはずが、いつのまにか内向的でパッとしない奴になった。そんな自分を何とかしたいと思うほど、暁晨は自己改革することばかりを当時考えていた。フツーに生きてきたけど、フツーは嫌だと思う時期だったのかもしれない

あらゆるものがフツーすぎたころ

この、"何とか今の情けない自分を変え、「内面から」成長したい"と欲したところが、そして行動に移したところが、張暁晨を張暁晨たらしめる、最大の長所。
全てはこの志から始まったのである。

モデルを二年くらいしていたとき、中国中央電視台主催のモデルコンテストで入賞したことでテングになった暁晨は、大いなる野心を持って、今度は上海東方衛視のイケメンオーディション番組に応募する。

北京、上海、杭州、重慶、武漢、瀋陽と、それぞれ予選地区が設けられていたのに、いち早く応募が解禁された武漢へわざわざ(GF同伴で)出向き、3日間の予選に出たことから、並々ならぬ意欲と、勝利の確信を持っていたことが窺える。

トシを一つ、身長を1㎝盛って申告した
他から完全に浮いているマスクと余裕の態度

課された歌(参加人数が一地区あたり5000人を超える規模のためいちいち伴奏などはなく、アカペラ)、ダンスなど臆さず、楽屋だろうがステージだろうが余裕の不敵な笑みをたたえ、かなり目立った。「全く疑いなく優勝するつもりだった」という、この自信過剰ぶりのどこが内向的かと疑うが、努力の上の自信が漲る様子はこの後多くの監督やスタッフに賞賛される暁晨の魅力の一つとなるのだった。

しかし、このオーディション番組は、当初暁晨が、彼だけでなく参加した選手らが思っていたショーレースとは全く違っていた。
勝ち進むのは己のみの精神ではなく、仲間と助け合い、切磋琢磨してゆく行程が満載で、いつしか暁晨も仲間たちーーーこのときに出会った選手らは、かけがえのない義兄弟のように暁晨にとって、選手ら全員にとって生涯にわたる親友となるーーーも、しぜんに精神的に成長を促されることとなった。

そして、ど素人からこの芸能界に飛び込んだ暁晨の、"芸能における全ての学びがそこにある"唯一の経験となった。

自分を応援してくれるファンたちの期待に応え、課された仕事に一心に取り組むこと、

体調を管理し、どんなに眠くともしんどくとも、その課題をこなし、

本番で自身の持てるものを全て出し切り、パフォーマンスをどう魅せるか、どうすれば評価されるのか、ファンだけでなくスタッフにも認められる働きをし結果を出すこと、

自分だけが良ければいいという考えではなく、仲間と励まし、慰め合い成功させることの大切さ、またそれぞれの長所を認め、尊敬すること、自分もまたその一員であることを自覚すること。
嫉まず、僻まず、称え合うこと、別れに涙することーーー

生涯残るたくさんの宝物をこの番組からもらい、暁晨はついに東方之星と契約し、アイドル歌手としてその芸能生活をスタートさせる。

暁晨が演技と向き合うことになったのは、デビュー間もなくして、本格的な文芸作品の舞台に立たなければならなくなった、《赤と黒》だった。

舞台監督は、即座に暁晨の才能に気づき、芝居のしの字も分からないど素人が同じ舞台に立つことに憤慨した他の俳優らから護り、出来うる限りの手助けをしてくれた。
持ち道具の扱い、立ち位置、楽屋でのマナー、…ありとあらゆる面で厳しい指導が入り、暁晨は耐えながら務めきった。励ましてくれたのは、主役だった李宗翰だった。緊張のあまりグラスを持つ手が震えていた暁晨が出番を終えて袖に引くたび、宗翰は"良かったぞ、臆さず行け"と肩を叩いてくれたりした。その振る舞いと実力から、暁晨の最初の憧れとなった。

李宗翰

暁晨のスタートは舞台からだった、これも無関係ではないと思う。

同じ『好男儿』出身の仲間とのドラマに数本出たのち、暁晨は俳優一本を志し北京に戻る。

《美人心計》や《傾城の皇妃》など、ルビー・リンの話題作品に数点出た序盤こそ順調だったが、そこからが大変だった。

名門演劇大学に行ったり、人気を爆発させ全国的に有名になった『好男儿』の他の何人かの選手とはいつしか道は大きく開き、果てしなく不安で未知が広がる脇役、悪者役ばかりを演じる日々、それも話題作などでは全くなく、演じては次、演じては次ーーー

何を目指してここに留まり、どうするべきかに悩み抜いていたころ、《怒放青春再見》という映画を撮った。
そこで演じたのは、斜に構えて破れかぶれに生きる、悩める男子学生。音楽に任せて鬱憤を発散し、恋にも破れーーー

今までの優雅で紳士な王子様的イメージから、汚れ役の端役に転落し、誰にも顧られなくなり、悩みぬいている自分とこの青年がシンクロし、暁晨は新たな自分の姿を発見した。
新たなというよりは、"これが本当の自分自身だ"と感じたほどの衝撃だったという。

そこから彼は、がらりと変わった。
金に任せて買い漁っていたブランドの靴を手放し、流行を追いかけていたストリートファッションはどんどん解放的でナチュラルなテイストへと変わった。
スプレーハットを被りストールを引っかけ、髪は野放図に長く伸ばし、ろくに束ねもしない。

以前なら考えられないワルっぽいショット

やがて来るもの拒まずでこなしていた仕事もセーブし、代わりに心身の充実を求めるままに、旅行に出かけ、友人らとただ呑みに歩くなど、現在と変わらないスタイルへと変化していった。

"名声や人気は霞のように、濃くなったかと思えば瞬きのうちに消えてなくなる。
息の長い俳優、皆に愛され、感動を与えることができる俳優に僕はなりたい。
僕が本当に満足し、自信を持って表現したいものができたら、しぜんと名声も付いてくれる。
狙ったりせず、あくまで僕は僕のやりたいものを精魂傾けるのみ。
佳い俳優になれるためだったら何でもする。
演じる以外の時間は全てそこに費やす。
それほどこの職業が自分に向いていると思うし、やりたいんだ"

ーーーそんな悟りを彼が持つようになった折もおり、そんな彼の理想を体現したかのような、陳坤という6つ歳上の大スターの事務所に移籍したのもそのときだった。
彼が辿りついた奇跡の出逢いである。

"你好、未来"ーーー
暁晨の三度目の転機、それは陳坤の事務所に移籍したことだった。
"ここは、演じることだけに集中させてくれる場所だ、そんな自分を全面的にサポートしてくれる"
そう暁晨は語る。
移籍したとたん、暁晨が出演する作品も軒並みランクが上がった。

《海上牧雲記》、《脱身》《鳳凰の飛翔》など、どれも大変な話題作で、衣装や美術、視聴される回数、配信元など、今まで地方のTV局のみだった世界から、一転目も眩むような世界へと変わった。これほど変わるものなのかと思ったものだ。
私が彼と運命の出逢いを果たしたのは、移籍してすぐ(暁晨が東申と関わりを持ったのは2013年末頃)の《皇帝の恋》だった。

この作品で、メインレギュラー(主役ではない)として出ていたのが、張暁晨だった。2018年の2月だった。中国ドラマを見始めたばかり。
作品を見終えるころには主役たちや筋はどうでも良くなるくらい、この俳優に惚れ込んでいた。
そのリアリティ溢れる演技にである。
私はすぐにこの俳優について調べた。
ところが、日本語で読めるものにはろくに記述がなかった。
次に出来ることは、Googleなどで画像を漁ることである(まだ微博の存在を知らなかった)。
画像を集めてゆくと、

このような甲冑を纏った武将ばかりだった。そこにふと、

このように、日本へ行ったときの多数のスナップが混ざっているのだ。
私が愛した俳優張暁晨は、名が余り知られていないが、日本をとても愛してくれているであろう人だったのだ。

あら、たんに旅行に行ったときの写真ってだけでしょ、と思われた方もいるだろう。
しかし違う。

《鳳凰の飛翔》のときも《無名狂》《陰陽師瀧夜曲》のときも、それ以外も、暁晨は撮影が終わるやすぐに、こちらに来ている。滞在期間は大体二週間くらい。
京都、伊豆、東京、箱根、横浜など、観光地ではなくローカル線をただ乗ったり、自転車で普通の道路を走ったり、民泊したり、と当時付き合っていた今の奥様や王伝君や友人たちと、満喫している。

普段着は専ら甚平や作務衣や浴衣で、

自宅には盆栽や、土産物屋で買った暖簾や浮世絵が飾られている。
この浮世絵は結婚した新居にも飾ってあった。

こんな嬉しいことがあるだろうか。
私は一気に親近感を覚え、その時から、何とかこの演技が素晴らしく素敵な人を宣伝できないものかと、そればかり考えあぐね、遂に私の熱のこもったおしゃべりに付き合うのがイヤになった妹が、Twitterを勧めたのである。

これが、記念すべき私の、暁晨に関する初ツイートだ。日付が12時で変わり、始めた日の翌日になったが、まず何をツイートするが考えあぐね、一番言いたかったこの言葉にした。
今から思えば、別にどうということもない当然のことだが、当時の私はまだよく分かっていなかった。私ならば、主役より気に入ったわけだから、その人について熱く語るだろうが、世のほとんどの人たちは主に筋書き重視で、記述も主役たちのみが精々だ。
今も変わらず、その問題には悩んでいる。
また、タグにも拘りがある。
私はこのとき、外国人にこの作品に関心を持ってもらいたかった。《琅琊榜》が"Nirvana of Fire"として持て囃されているのを見て、閲覧数度外視で、英題を付けたのだ。
タイトルも、《皇帝の恋》より原題の《寂寞空庭春欲晩》の方が好きだった。
アホである。
いいねはサクラの娘だけ。

そして、ひっそりと『皇帝の恋』の長慶のパートだけで構成した物語を、連載形式でツイートしていった。
見て下さいではなく、見てもらえなくても読んでもらえばどんな話で、どこが見所でどこの暁晨がどのように素晴らしいのか分かるようにしよう、という考えからだ。
Twitterは尻から読むスタイルで、しかもタイムライン上には、その時その時でばらばらに表示される、そんな性質をまるでお構いなしに、三年ほどその形式で、最終回まで到達しても、また二周、三周と、今までで6周近く繰り返し書き続けている。
そう、私はしつこいのだ。

しかし、そうしていてもまだ、私にとって張暁晨は"一番好きな俳優"くらいのものだった。今と違い当時のTwitterの中国ドラマに関する環境は、余程のツウの方以外、CSの専門チャンネルと毎日BSで無料で放送されていたものを中心に皆で楽しみ、感想を共有し、1つの作品毎に俳優を覚えてゆく、そんなものだった。
事態が変わったのは、"ある事件"がきっかけなのだ。

2019年暮れーーーつまり、私がTwitterを始めて1年が経とうとするころ
事務所が暁晨の1年間の仕事を振り返る海報(ポスター)を出した。

横長のそこに、『陰陽師晴雅集』の記載が。つまり、この映画を撮影したということ(この時点ではまさに撮影中だった)だ。
この年の6月に『永遠の桃花』が再放送され、それを見てハマった私は、たくさん新しい桃花が好きな方々と知り合い、Twitterを毎日書くのが楽しくてならないころだった。

この映画は、その『永遠の桃花』で人気を不動のものにした趙又廷と、放映を終えたばかりで人気に火がついた『晩媚と影』の汪鐸、『霜花の姫』の鄧倫と、夢のようなキャストが出演していた。

海報の美しいこと、しかも、この作品は原作が夢枕獏の公式の許可を得て製作されている歴とした中国版《陰陽師》であり、音楽はかの川井憲次だった。
日本でこれが公開されれば、普段中国ドラマを見ない人にまで、暁晨を見てもらえるかもしれないし、《陰陽師》だけでも興味を引くし、きっと日本の人たちに親しみを持ってもらえるに違いない、名前を知られてほしいと常々願っていた張暁晨が、趙又廷、汪鐸、鄧倫と共演するなんて!
私の愛する人を引っ提げて、皆様と喜びが共有できる!と、ひといきに夢が10個くらい叶った気持ちで大興奮した。

映画はどんどん美麗な海報が作られ、グッズやコラボしたおもちゃまでもが現れ、私はこれらに描かれたり、作られたりした暁晨を想像し浮かれるのに忙しかった。
そんなころ

暁晨がインスタに京都の写真を上げたため、勇気を出してコメントしてみた。
私は中国語は分からないので、翻訳機からのコピペである。
京都ばかりなので、ぜひ伊勢にも来てほしいと、そう書いたのだが
なんと3か月以上も経ってから
本人から返信が来たのだ!!
ひっくり返ってスマホを投げそうになった私である。
後から分かったことだが、暁晨はわざわざ、映画のヒットのために、晴明神社に参拝に来ていたのだ。新婚旅行の一環だった。

北野天満宮と同じ日付けで。これは緑洲(オアシス)という、中国版インスタにあたる場所での投稿で、当時リアルタイムでは私には見ることは出来なかった。私が緑洲を始めるのは、この1年後だ。
そして年が明け、4月となり、私の誕生日に映画は完成した。

この夜のことはよく覚えている。中国では、極力撮影中の様子や情報は、上映が決まるまで(中国は脚本や企画、そして完成品が出来てから二度にわたり、国のチェックが入る。許可が下りて初めて公開できる)伏せられるため、この監督とのツーショットのコラージュに、世界中の俳優のファンは目を皿のようにして、自分の推しのカットを探した。
私ももちろん探した。この頃の暁晨はまだ、脇役ポジのためいないのが当たり前か、いたらラッキーといった感じだ。そして、見つけた。

"二枚目"の、1番上にいた。
ひげをつけ、白髪混じり。
この造形には少しがっかり。まだ37なのに、じいさんか…
私はそんなことばかりに気を取られ、重大な見落としをしたのだ。

映画は二部作だったのだ。
うち彼が出演したのは後編にあたる『瀧夜曲』。
映画が2本にわたることに私が気づくのは、半年も経った秋である。予告編に影も形もなかったからで、我ながら痛恨のミス。

予告編は秋に出た。暁晨も自分が出演していない前半を、紹介した。
曰く"空を飛んでいるような感覚"。
このような豪華極まる映画に出ることができた感慨だろうか。
8か月に及んだハードな撮影が夢のことのように感じ、完成した前半部分を試写で見て、うっとりしたのだろうか…

前半部である『晴雅集』は、それから2か月後、クリスマスに上映された。

前編なので当然暁晨の姿はない

しかし、暁晨の公式ファンクラブは『晴雅集』をこのようにとらえ、宣伝した。
張暁晨ファンの心意気である。私は感激したものだ。
映画は公開僅か二週間で、四億元の収益を上げた。
ところがーーー

大晦日。
暁晨がインスタに上げたのは
"happy new year but fuck year"
だったーーー
何があったの?………

年明けーーー"事件"勃発
監督の郭敬明が15年前の盗作容疑を認めて来なかったため、彼の快進撃と最近の活躍を"ふざけている"と思った有志が動いた結果、監督が過去の罪を認めたのである。
その瞬間監督は罪人となり、罪人の制作した映画はけしからんと、全国の映画館で上映を差し止め、興行記録も抹消という顛末に。
日本の鄧倫や趙又廷のファンは騒然となった。推しが舞台挨拶に日本に来るかも、とまで期待して待っていたのに、中国以外の国に住む者は映画を見られないままなのか⁉︎と。
そのとき、私も戸惑いと共に思った。
後編は?
完成し、日の目を見ぬまま永久に封印だと?

私の戸惑いを理解していただけるだろうか。
映画の制作中の情報は、上映許可が下りるまで秘密である。
二作は、8月18日から同時に撮影されていた。

暁晨も前編の俳優らと共に、アクションの訓練など、撮影所(北京から遠く浙江まで離れている)に詰めていた。

撮影中の写真は本人が何の作品かも言わぬまま自身のインスタなどに残したもののみ。海報はおろか、演員表にすら名前はない。

クランク・アップの集合写真にも姿はない。暁晨はどういう事情か、その前日に去っていたのである。

つまりこの作品に暁晨の痕跡は、あのコラージュ海報を除き、無いのだ。
何も残さぬまま、封印される、と?

呆然としている私を更に追い詰める事態も起こる。
何と前編である『晴雅集』が、当初の噂通り世界中のNetflixで配信されることが分かった。
事件から二週間ほどした頃である。開始日は2月5日、午後4時。
私は受け入れられなかった。
暁晨が出演した方の後編は、フィルムのまま、映画として形すら残さぬまま葬られたのに、前編は世界の人に、自宅に居ながらにして、何度でも見てもらえるというのだ。
嘆いていた趙又廷と鄧倫のファンは一転、お祭り騒ぎの様相だった。当初Netflix独占配信(スクリーンで見るのを楽しみにしていた)という情報に憤っていた者まで、諸手を挙げて大歓喜である。

名が知られている趙又廷らが世界中で見てもらえ、名が知られていない張暁晨が見てもらえない、本編も、海報も、動画も名前すら!
そして
私は"夢見た仲間の一員"から一人だけ外れてしまうこととなった
暁晨も出演者の一員と思えばこそ
『晴雅集』を宣伝していたにも関わらず。
私は嘆いて嘆いて嘆きまくった
冗談でなく一週間経っても二週間経っても涙が溢れて止まらないのだ
見かねた方が提案して下さった
Netflixは二作品とも先に契約をしているはずだ。一作目がこれほど好評なら、二作目のために動いてくれるかもしれない。

私は少しだけ顔を上げた
Netflixに声を届けよう
中国に住んでいる暁晨や暁晨のファンたちには不可能でも
私の手で
もしか配信が可能かもしれないーーー

そのとき私の脳裏には
鄧倫や趙又廷の何百万人というファンがいた
彼らがリクエストしてくれたら
Netflixがわも動いてくれるかもしれないと
百人力の気分だった

活動を舟に喩え船出をした

そこで私は行動に入った
毎日
夜12時までに嘆願のツイートを書く
文面は全て毎日書き起こしテンプレはしない
同じ文章は決して書かない
全て新しい言葉で書く、と。
なぜこんな誓いをしたかというと
テンプレなんて手抜きの極致だ
私のこの想いがいい加減なものと思われたら大変だ、と考えるからである

そして事件の顛末を知らない人が見ても分かるように嘆願ツイートの前後は暁晨のツイートが来るよう気を配る
興味を持って私のホームに来た人が暁晨以外の俳優を紹介しているのを知り
"その程度か"と思われたらたまらない
他の俳優は、悲願叶うまで扱わないーー

私自身のこだわりと信念で
私のアカウントは暁晨のみとなっていった
どんなに眠くとも、前後と本嘆願ツイートを書いてから寝る
気持ちを込めて書くため、常に悲しみに暮れていなければならない
上面だけの偽装したような文は書かない、と。

活動は失敗だった
かなり早い段階から
最初の一週間、50名ほどの方が参加して下さったが
ほとぼり冷めるやぱったりである
私は無意味な活動であることに気づいた
当初の期待とは違い
全くというほど
賛同が得られなかったのだ
頼みにしていた鄧倫と趙又廷のファンたちは動かなかった
私は今ならそれがなぜなのかわかる
中国ではこのようなナンセンスな騒動は日常茶飯事だったのだ
静観が最良の策である
けれども、私は何とか彼のために何かをしたかった。

毎日毎日恨めしい泣き言を繰り返すうち
みるみる200人ほどもフォロワーが減った
しかし途中で投げ出すわけにゆかない
アドバイスしてくださった方に申し訳ないし
ここでやめたら無様そのものだからである

しかし毎日泣き暮らすうち
自分でもこれではいけないと感じるようになった
このままでは心の病になってしまう、と。
大袈裟な、と思われたかもしれない。ツイート上で私が泣いていると書く度に比喩だと思った人もいるだろう
しかし、私は一日中本当に涙を流していたのだ
涙がこれほど渇かないものだと知った
どれだけでも溢れてくるのである。

そのとき
貴女のやっていることは何の意味もないことだ
と言ってくれた方がいた
Netflixは所詮配信プラットフォームでしかない。
完成してもいない作品のために何かすることなど無い、と。
"やはりそうか"
ーーー
私はようやく
矛を収める決心をした
ちょうど300日ーーー

その後
映画は秋ごろに
案内表示が2021→2022→2023年に変わって行っていたものの
年明けた3月
主役の一人鄧倫の脱税による業界封殺により"無期限封印"から"永久封印"となったという信じられない止めを刺されて終わった
私がたとえ秋に活動をやめていずとも、結局はその半年後には虚しく幕切を見させられ
無残に終わっていたのである

更に信じられないことには
件の郭敬明監督はその後白々しくも新たなドラマを制作した。

"それ"は撮影終了から半年も経たずに放映され、何も知らない新規に中国ドラマを楽しむようになった人々に絶賛される人気を獲得した。

何と
監督、脚本、演出は紛れもなく郭敬明であるにも関わらず
名前をクレジットしないという呆れた対処で!

こんな方法で逃げをうてるなら
かの映画も完成させ上映できるのでは⁉︎
待ち望んでいた私たちは腰を浮かせたものの
次の瞬間には
虚しく地に伏した
主役の鄧倫が出ている以上それは望めない
返す返すも恨めしい
いったいなぜ何回も何重にも阻まれねばならぬのかーーー

"新たな道を"
嘆願活動の代わりに
何が暁晨の名前を広く知ってもらうために有効か?
そして始めたのがこのブログ。
Twitterよりもたくさんの文章で彼の情報を知ることができる
そう思いチャレンジした。1番頭の記事の最初の文言は、これを受けてのことだ。

初めて投稿したもの

今一つは、微博の暁晨のファンダムに投稿すること。今までは向こうのファンの投稿を見ているだけだった。
ここ日本から、勇気を出して発信してみよう、日本にも彼の熱きファンがいることを、知ってもらおう。
そして、暁晨の投稿にも、コメントを書きこむようになった。

するとなんと、暁晨から頻繁に返信をもらうようになったのだ。今まで緑洲やインスタで返信を貰うことは稀にあった。
あれ以降も、貰っていたのである。
しかし、その頻度は微博で書き込むようになり、以前とは比べ物にならないほど増えた。

中国では、芸能だけでなくあらゆるものに対してこの"超話"という微博内のファンダムサークルがある。
ここへは誰でも気軽に投稿できる。
特筆すべきは、例えば張暁晨の超話ならば、張暁晨自身が現れること。
常に自分の超話をチェックし、こちら側には、彼がオンラインかどうか、オンラインでなくてもいつまで居たかが分かるようになっており、

投稿に対して、彼自身もいいねを押したり、コメントを書いたりする。
また、ファンダムチャットもあり、

ここでも、暁晨本人が現れ、会話することができる。
中国ではこのように、非常にファンとの距離が近く、インスタに彼が返信をくれたのも、この習慣あってのことだったのだ。
彼はたくさん、私の投稿にいいねをくれ、コメントもたくさん返してくれた。
あまりに日常的にそれがあるため、ファンたちは椅子取りゲームのように、早い者勝ちで今日も返信をゲットしようと、手を考えるのに忙しい。
暁晨の興味を引こうと奇天烈なことを書いたり、答えたいと思わせるために質問形にしたり、といったふうに。

昨年はついに、"直接"誕生日を寿ぐことができ、彼も反応をくれた。
表(暁晨の微博)でコメントを貰った子が、嬉しそうにチャットでそれを報告し、周りのファンがそれを寿ぐというような微笑ましいやりとりもしょっ中だ。
私は日本人という微妙な立場のため、嫉妬を買いやすい。実際、チャットに参加するようになったことに、夏場という反日感情が高まる時期だったこともあり(ファンの大半は20代前半)、なぜ中国のファンダムに日本人がしゃしゃり出てくるのだと反感を露わにしたファンもいた。しかし、古参はじめ30代以上なファンは温かく迎え、接し、宥めてくれたり便宜をはかってくれたりする。
そんなやりとりをどこかから暁晨も見ており、ある時は遠回しに皆を諌めてくれたこともあった。
私は感激し、皆に分からない形で礼を言った。
何があったかは、日付けから想像してもらいたい。

読んだのみで放置することもできようが、彼はこうして、返事をくれる。
中国の俳優である彼が、何の関わりもない外国人、しかも"夏の時期"の日本人に"You are welcome"と返してくれている、それだけでも、彼がどれだけ誠実な人間か分かっていただけるだろう。
それから程なくして、私は手術をした。
気管支の検査がなかなか通らず、手術でなく麻酔が原因で何かあるかも、との懸念が最後まであった。
そのため、麻酔から覚め、たまたまいつもは上げない時間に上がった彼の投稿を見たとき、ああまた彼を見られるのだと感激した。
そのとき彼が上げたのは、上海のどこかで食べた麺の写真だった。
私は今のこの感激を彼に知ってもらいたいと思った。しかし、手術したということで彼の関心を引こうとした、とファンに思われないかが気になった。
そうして、けれども私はコメントを送った。

"私は昨日手術を受けました。あなたの文章を再び読むことができ、感激しています"ーーー
すると、彼からやはり返事があった。

"何の手術を?"
ーーー"返信をありがとうございました。私は子宮を取ったのです。以前倒れたことがあり、それで。私には既に二人の娘があります。だから未練はありません。退院するころ、『風起隴西』の放映が始まります。私はそれを楽しみにしています"

彼はこのとき、"癒"の絵文字をたくさんくれた。
懸念していたファンの反感はなかった。みな挙って心配してくれ、こちらも大変感激だった。皆私のことはハタチにもなる娘の母親だと知っているため、"姐姐"と呼ぶ(普通は年齢がわからないため姐妹)。
ところが、彼の真心はこれだけではなかったのである。

仰天したのは、そのすぐ後の彼の写真に私がコメントをしたら、彼の方から
"早く良くなって"
と返してくれたことだ。
私は感激し、もう既に退院し、自宅のベッドでこれを見ていると伝えた。
彼が私を、完璧に認識しているという証である。
そのすぐ後に彼は、《卿卿日常》の播出による影響により、自身のDMを解放した。
その顛末はこちらから。

いつも彼のインスタや微博にコメントするのとは訳が違う、DMを送るまでは非常に躊躇し葛藤し勇気を振り絞った。
日本語ならまだいい。しかし不慣れな中国語で送る文章には、いつも非常に気を使う。意図した文章になっているか(翻訳機で変換しただけでは反対の意味になっていることもしばしばある)失礼にあたらないか、私はいつも日本語で書き、それを英語にし、調整し、更に中国語にし、それを日本語訳し、おかしかったらまた調整しと細心の注意と手間をかけている。
彼もどうやっているのか、素朴に疑問だったらしく、訊いてきたことがあった。
彼は好奇心が人一倍強く、興味を持ったら突進あるのみ。先程のファンの苦肉の策も、そんな彼の性質をよく分かっているからである。

先程の工程を説明したら、
"何てこったすげーや、手間がかかるの、お疲れ"
と返してくれた。

さて、清水の舞台から目を瞑ったまま飛び降りた私、あっけないくらいに私の書いた文字は彼のもとに飛んでゆき
あっけなく返事が来た。

彼からの返事は
"貴女の体が早く回復しますように。日本に機会があればまた行きたいです。京都は僕が最も好きな旅行先です"
だった。ここでも私の体を心配してくれ、何と日本に関することまで!

彼とホットラインが繋がったことにより、私も彼も、ファンに見られることなく、日本に関する話題を繰り広げることができるようになった。

私の微博のメッセージ通知画面に、フツーに"張暁晨"のチャット用アカウントがあることが、信じられない。
この状況が、いかにアホくらいあり得ないことか、何度頬をつねったか知れない。
涙に暮れていた幾夜、気軽に彼に向かって、

"你好!撮影は順調ですか?
今日は伊勢神宮に行ってきました、貴方の好きな"君の名は"に出てくる組紐は、伊賀組紐といって、武士なんかが刀を提げる下緒もこの組紐です。ここに来れば、貴方はこれらを買うことができますよ"
"きれいだ。今年はいっちょう日本に行く計画を立ててみるかな"
なんて、やりとりをやってるなんて想像もつかなかったろう。

彼とのこの奇跡的な展開は、あの因縁の『瀧夜曲』に意外で感動的な結末をもたらした。
私は『瀧夜曲』での悲しみや、悔しさ、そして彼のために、私自身の矜持のために行った活動が失敗に終わったことなど、彼に洗いざらい聞いて貰った。
そこでやっと、涙は止まった。
不思議なことに、彼に伝えることで、未練が消えたのだ。
折に触れ思い出し泣くことはあっても、私の中で何かが変わった。戻れた、と言ってもいいかもしれない。

私は、これほど彼に惚れ込み、熱く応援している彼の待ち侘びた映画が無残に葬られ嘆いている日本のファンがいることを知ってもらい、彼のできない方法で何とか映画を完成させて、ただ彼に喜んでもらいたかった、自分の気持ちに気がついた。
彼に伝えることが叶い、その気持ちに踏ん切りがついたのだと。
しかし誰が思うだろう。
この日本に居ながらにして、あの中国に住む俳優に、"直接"想いを告げることができる、などと!

それもこれも、全ては彼の誠実な対応で、成されたことなのだ。
彼が私の送ったメッセージに反応しなければ、これらの奇跡は起こっていない。

彼の誠実さは、ほんとうに尊いものだ。
自分に厳しく、けれどもそれはぴりぴりと神経質なものではなく、とても深くて寛くて、人柄は穏やかで優しい。

友人がたくさんいて、いつも周りが賑やかで、フットワークも軽い。

最高の夫でありパパであり

最高の俳優でありーーー

10代のころから、自身を徹底的に客観的に見つめ、より良い人間になりたいと、その一念で生きてきた40年。
苦労し苦悩しながらも、天秤座ならではの優れたバランス感覚で数々の英断をやってのけ、

なのに独善的にならず、周囲に愛される温かい人柄、奇想天外な行動、侘び寂びでバンカラなライフスタイルーーー何を取ってもこんな人、世界に一人だけだと思わせる。
この人に惚れ込み追いかけて5年になるが、ただの一度も失望させられたことがなく、毎日毎日、それこそ何か起こる度に想像を超えた態度と行動で、舌を巻き、感激させられてばかり。
惚れて、更に惚れて、惚れ抜いているのにときめきをくれる、張暁晨とはそんな人だ。

彼はこの9月30日で40歳。
波瀾万丈だった20年を乗り越え、これからまた毎日、どんな素敵な姿を見せてもらえるか、わくわくしている。

生日祝を終えて

暁晨の誕生日当日、私の娘はイギリスから戻ってきたばかりの、忙しく時差ボケに疲れた体で今年用のイラストを、スマホを使い指一本で描いてくれた。

今年はもちろん、《七時吉祥》の吴軒である。
作品の放映中でなかったために寂しかった昨年とちがい、今年はたくさんのメッセージが届き、賑わいに私は感激した。
WOWOWで《風起隴西》と《卿卿日常》が続けて放送された事情だろう。
これでもし、一般のBSにこれらが放映されればもっと暁晨の知名度も上がるに違いない手ごたえを感じた。
私はどうしても、この賑わった誕生日のことを彼に伝えたかった。

今年の誕生日は自宅で迎えた

コメント欄で伝えた昨年。
そして、今年は、ダイレクトメールーーー彼と繋がったホットラインによって伝えることができた、この信じられない幸運と奇縁、そして外でもない、彼の好意と誠意によって成り立つこの奇跡に、私は彼のことばかりで過ごした、この五年の日々と、盛況をもたらした彼自身の飽くなきチャレンジ、それを成し遂げてしまった業に、感慨を新たにするのだった。

張暁晨ーーー
皆さまも、この名をクレジットに見つけたら、ぜひ不屈の精神で演技力を磨いてきた、彼の半生と、その人柄に思いを馳せ、応援していただきたいと願います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?