これを頑張ったらこっちが削られるという状況を、機嫌良くまるっと解決できないかと考えを巡らせていた。
あくまでも小さな小さな私の生活の話で、ここに書く意味もないのだけど、表に出すとちょっと緊張感もあるし、誰かが「望みを言葉にすれば叶いやすくなる」と言っていたから書いてみる。

ちょっとした望みなら、ぶらぶら世界中を旅したいとか、どっぷり趣味をやろうとか、正規に芸大に通いたいとか、経験したい仕事があるとか、たくさんあるけども、どうしてもコストとして支払うものに「時間」がある。
noteをはじめとするSNSも、やりたいことを実現するなら何らかの手段で知ってもらう必要があったからというのが、始まりだった。
でも、他人に自分を理解してもらう努力が苦手であるのにSNSをすると、その時間が苦痛なものになるのだった。ただの甘えなんだろうけど、表現に長けた人がたくさんいる場所に自分が出ていってもなぁ、という考えが引き金となって、あれもダメだしこれもダメだしと、自分へのダメ出し合戦が始まってしまうのだ。ここでまた時間の無駄が始まる。
ただ、SNSが全く意味がなかったかといえば、そんなことはなく、色々な人生や考えに触れたり素敵な人との出会いもあって、やらないよりもやって良かったと思っているし、ありがたいことでもある。


自分にとって、これを削ったら私の幸せは絶対にないとわかっているものは、家族(犬も)との時間である。
これは、先代犬を亡くしたときに一番後悔したことだ。
時間ばかりは何をしたって取り戻せない。

家族との時間を犠牲にせずに、他の動物たちにも少しでいいから貢献できるようにする時間を過ごせないものか。
限られたいのちの時間を共にしたいし、それに加えて、やっぱり動物たちの幸せにつながる何かのために、少し欲張りたい気持ちはあって。

そこで”ピコン”と陽気な音を立てたのが、キャンピングカーである。

時間や場所の制限なく一緒に動けるもの。
犬と一緒のホテルの予約も必要ない、少し不便な場所でもいい。
天気が悪かったら日を改めれば良い。
災害時にも役に立つ。
いろんな融通が効く。
自由である。

旅行を兼ねて日本各地のクラフトマーケットに出店してみたい。
売れなくても、ともに旅する時間が手に入っている。
もし売れたら、その収益を寄付に回せる。
行ったことのない土地に行けるのもいい。

そんな夢物語を描いているのであるが、
実際はどうなのだろう。

キャンピングカーなんて、あんな高価なものを買ってしまってから後悔もできないので、
とりあえず、レンタルして実験を重ねることにする。

まずは、キャンピングカーを運転してその中で寝れるのかってところから、
各地の温泉巡りなどして楽しいかって確認するまで。

とりあえず、来月にレンタル予約、
した。


こんな発想に辿り着くまでには紆余曲折ある。

これまでは、地味に週に2〜3日パートをして少しのお金を寄付したり、
余裕のある時間を、趣味や犬との時間にするという生活を想定していたし、
実際にそうしていた。

でも、このパートという社会の末端で働くということが、どうも幸せにつながらないと感じることが重なったのだ。誤解を恐れずに言えば、上には上があるように、下には下があることを知った。決して人間に上下関係をつけたいわけではなく、人は余裕がなくなればなくなるほど、その手段が下劣であるように感じたからだ。そして、余裕がなく程度が低い集団ほど、それは、なんでもない当たり前であることのように存在するのだ。
もちろん、自分の未熟さが招いているものもあるし、労働環境をきちんと見ていなかったのもあるし、相性の良し悪しもあって、すべてのパート労働が不幸だなんて思わないし、今後もその可能性を排除してはいない。

私は非正規労働者となって長く、色々な場所で働いてきた。場所を気軽に移って経験の種類を増やせたことは、とても良かったと思っている。何のキャリアにならなくても、うっすらとでも世の中を知るきっかけになって、物事を判断する直感が働くようになったからだ。その点においては、非正規労働という立場は価値があると思う。
一方で、どこにいても違和感を感じたことがある。それは、非正規労働は、契約の上では割り切ったジョブ型でありがならも、日本においては、働き方やあり方にはメンバーシップ型を求められがちなことだ。
これは、上にとって非常に都合の良い捨て駒であると思っている。
もちろん、人間関係に恵まれたり、人間的に成熟した上司のもとで仕事をするならば、メンバーシップ型のようなあり方は居心地の良い場所となるし、長く働きたいだろう。
でも、その逆は地獄だったりする。上の職員の承認欲求を満たすための道具とならなくてはならない不文律が多い組織もある。時給を数十円あげてあげるからという低いモチベーションをもとに頑張ることを要求されることもある。そして驚くことに、そんな理不尽な競争に乗ってしまっている非正規労働者が多いことも特徴だ。
お金がなくては生きていけないから、そこで認められて上にあがりたいという気持ちはわかる。承認欲求ならみんなある。でも、職場を居場所にして自分のアイデンティティーにしてしまう人が、多すぎるのではないだろうか。そこで過ごす時間が長くなるほど、まるで人生の結晶のように、努力し積み上げた結果としての誇りもあるだろうし、それは仕方がないのだろうけど、なんだか虚しいのだ。そのために誰かを攻撃したり足を引っ張ったりする生き方をする人も必ずいて、人間関係の政治が行われたりすることは、やっぱり虚しい。
そこまで非正規社員という下の立場の人間を競わせないでほしいのだ。その仕事をこの値段で請け負ったら、もうそれでよいではないか。自分を棚に上げて、脅して働くことを要求しないでほしい。

そう思う私は、世の中に出ると、どうしてもやる気をなくす方向に行ってしまう。頑張って手に入れるものの、何とちっぽけなことよ。

とはいえ、今後の社会の変化の影響を受けないほど盤石な基盤を持っていない庶民であるから、リスクヘッジしつつ、まるっと良い時間を過ごせる方法を探している。
すべて自己満足なんだけど、いい時間は幸せの条件だから。




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