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寄稿

どうもこんにちは。菅原小春です。生きることは踊ることだと思うのです。感情、言語は持参のフィルタを通るものです。いやらしいフィルタはよしてしまったほうが良いのです。何かしらを表出する時、自分の敷地から出す時、外界に放出する時、【表現】が必要になります。その時に体はその最低限のフィルタとして残り、機能することでしょう。それが踊りです。踊りはもっとも粗野かつピュアなプロダクトです。踊りこそ裸に近いノンバーバルな誠意だと思うのです。体という下着(ほんのわずかな品位)を纏った、血の通ったことばなのです。踊りましょう。
人と人は必ず分かり合えると思っています。姿勢さえあれば境遇や経験、文化圏を超えて(≠越えて)、コミュニケーションはとれます。いつかとれます。とれてほしい、とれるはずなのです。そう信じています。でもなかなかどうして、私は膠着した価値観とメソッドに縛られて、ぬるま湯からRoughな感情に任せた論評と勝負に固執してしまうのです。それは他者との間に理解という結果を得るには遠い姿勢です。鞣された語彙で他人に私的なメソッドを押し付けるのはいかんのです。
ただ、相互理解において自分の言葉(意思)を持つことはその前提だと思うのです。言いたい事もなかったら会話する必要がないのですもの。そこからは努力です。起こりうる身の回りの事象全てに責任を持つということはかなりイケてると思います。ただ、それをすると決めたなら、人智を超えたバイタリティが必要になるの。言い訳をしない、しなくていいようにするという事なのだから。誰にでもできることではないわ。下手したら死ぬし、下手しないでも死ぬわ。でも私はそれをイケてると思うのです。私はイケてたいのです。あなたとわかりあう事に責任を持って臨みたいのです。

でも今日はちょっと踊ろうかしら。
明日はしっかり踊るために。


菅原小春

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