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おぼえがき❻

【メモ】

人は2種類に分かれると思う。
人はそれぞれ100人いれば100通りあって、分けたりまとめたりすることに意味はない。ただここでは考えを整理するために仮定として分けて話す。人は学問をした人としていない人に分かれる。公的な機関での経験の有無という意味ではなく、筋道のシンプルさと論理の構築能力、ものごとの進め方を知っているかどうかを指している。2種類の人間にはまるで別の世界がみえている。今僕は学問をしていない人であり、そちら側として話す。

[真理]は見知ったことによって構築されていて、新発見するものではない。そしてそれは経験を元にするので自分以外の誰とも共有はできない。人はそれぞれに真理を持っていて、別の人間だからこそ触れ合いに意味がある。共通点探しは元々違う2つの違いをより炙り出し、地獄で地獄をする行いであり意味はない。

はじめ僕は人を2つに分けた。この分けるということは自分がすること。別れているものなどない。他人からの評価に見えるものも分解すればさまざまな要素を固めた自分の判断であることがわかる。

自分の存在を過信する事(評価の憂慮)はそれこそが「生活」であるけれど、そこに本質を見出してはいけない。隣人も人であると信じる事が[活動]である。触って、質感や体温からその奥の血の巡りを感じようとしなければ行けない。言葉や表情は設定に過ぎない。評価ありきでなく信じる事。

仮定の上の論理は優れていても
[憶測]であること。

自分の芸風(生き方、生活の中でよくやってしまう行動の流れのモデル、癖づいた思考)に不信感があるならそれを離れる行動を取ることに人間としての価値がある。知ってる味を知ってる作り方で知ってる摂り方をして知ってる感想に甘んじる、カップ麺のような日々に酔ってはいけない。


真理に近づき真理に離れる、離れてしまう事を反省しまた行動する。ホログラムの真理を追いかけて走りすぎることの繰り返し。真理の周りに居続けたいと思うことこそ本来あるべき姿勢。
メンヘラ、サブカルに死を。彼らは「生活」が真理になっている。カップ麺に自身を見出し他人を評価することを「生活」でなく[活動]と捉えている。必死さのない彼らの思想や言論に価値はない。真摯であることが人間の条件。人間でない人間と関わって得るものはない。

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