神田伯山新春連続読み『畔倉重四郎』2024 6日目
ついに6日目。千秋楽となってしまった。
一言でいうと“ハプニングの多い1日”だった。そして、予期せず起こる物事への伯山先生の対応力の高さを見た日でもあった。
マクラでは会場内の連続券の客と一日券の客とが対立構造になりつつある話が面白おかしく話された。伯山先生が一日券のお客様向けに、連続券の方も復習がてらとこれまでのあらすじをダイジェストで読んでくれた昨日、連続券の一部の方が「あらすじなんて野暮だ」「一日券は見捨てろ(だったかな?)」という感想を書いたらしい。陰湿なコミュニティが出来上がっちゃってるよ!と話す伯山先生を見ながら、「せっかく講談が盛り上がってきて発展しようとしている時に新規の客を減らすようなことを客が言うなよこの老害め!」と内心キレ散らかした自分だった。まあでも連続券と一日券との対立構造に老人と若者という対立構造まで生んでしまうのはよくないし、三十路が見えてきた年齢にもなってカッカするもんじゃないや(←老害への当てつけ)と気を落ち着けた。むやみに対立構造を生むことこそ野暮である。
奇妙院の悪事(上)
「ダレ場だけど個人的にはおもしろいと思っている。ここを上手くやるのも技量なので頑張って読みたい。つまらない話が50分続きます」などと言われ、いかにつまらない話か、それがどのくらいおもしろく感じられるかと期待しながら物語が始まった。
奇妙院が後に金を騙し取る夫婦の子の話から始まる。その子は見た目も性格もとても良い、おはまという名の女子だったが、17歳にして病で亡くなってしまう。その子にはとても良い仲になっている許嫁の喜三郎がいた。おはまが亡くなり100日も経過した後、喜三郎とその付き人を名乗る2人が彼女の眠るお寺を訪れ、おはまの姿を見せてほしいと頼む。その当時は本来、お墓に一度埋めたのに掘り返すのはやってはならないこと。しかし彼の今後のためにも見せてあげるべきかもしれぬと考えたお坊さんは、おはまの姿を見せることにする。出てきた棺を先に覗き込んだお坊さん。やはり見るも無惨になっているおはまの姿を確認し「お覚悟なされよ」と一言。さあ喜三郎が棺を覗きこもうすr「この先、右に曲がります」
客席から何か機械音がした。「」内はこんなことを言っているような気がしたので書いただけのもので、あまり正確に文言までは聞こえなかった。(2024年1月28日追記:伯山先生のラジオ曰く、文言は「マナーモードにしてください」だったそうです。)ただ、何らかのナビみたいな声だった。とんでもなく間の悪いタイミングで鳴り、伯山先生も少しの沈黙の後「普通は止めないんですけど、止めるしかないよね」と苦笑い。そして真顔で「名古屋のお客様、ここまで一切何も鳴らずにきていたので本当にありがたいなと思っていたのですが」と話された時、「あーあ、この5日間でこれほどまでに信頼してもらっていたのが全部崩れてしまった」と感じた。いつの間にか高く積み上がっていた、信頼という名のレンガの崩れ落ちる音が聞こえるようだった。鳴った音の感じからして年配客のように思われる。この老害がぁぁぁぁぁ!!!!!!!! 止めたはずの気持ちが止められなくなった。伯山先生は「携帯の電源は切ってくださいね」としっかり釘を刺し「今どのくらい悲しいかというと、喜三郎くらい悲しい」「ちゃんと笑いに変えておきますから、お願いしますよ」と再開した。だがこの続き、正直あまり頭に入らなかった。伯山先生の対応はおそらく最高で最善だった。そして再開後もかなりの気力でもって元の勢いを維持しようと続けられているのが見て取れた。自分も客のひとりとして集中し直して応えなきゃと思いはしたものの、ここまでさせてしまっていることの申しわけなさが頭を巡ってしまった。名古屋人の矜恃を持つ者として恥ずかしくなってしまった。そんな自分の態度がまた申し訳なかった。ただ、この携帯の話で思うことには続きがあって、書くとまだまだ長くなりそうなので稿を改めることとしたい。ただもう一言だけ、どれだけ気をつけていても失敗する場合もあるのだから、携帯を鳴らした人を絶対悪として攻撃対象にするのは違うと思っている、とは書いておく。事が起きた瞬間は鳴らした人を恨んでしまったけれども。
さて続き。実は喜三郎を名乗っていたのは奇妙院の兄貴分の権太、付き人を名乗っていたのは奇妙院だった。おはまが喜三郎から貰い大切にしていたかんざしを棺から盗み換金するため、許嫁と付き人を偽っていたのだ。しかし奇妙院は換金した後の金を独り占めするため、権太に毒を飲ませ殺害する。……なんだか不覚にも、『畔倉重四郎』の話の中に毒殺が出てくるのが新鮮だと思ってしまった。奇妙院もそれなりに悪党じゃないか。
奇妙院の悪事(下)
奇妙院は僧侶に変装し、かんざしを持っておはまの父母の元へ出向く。おはまに言伝を頼まれたと言い、かんざしを見せて本当のことと納得させる。言伝として、おはまには何度生まれ変わっても短命に終わる因縁があると伝え、因縁を断ち切るために最低100両が必要と言うと、父母はすっかり奇妙院を信じ、110両も貰えることとなる。もし自分が1年前にこの話を聞いていたら、人の不幸や子を思う気持ちにつけ込んで大金を得る奇妙院に腹立たしく思う気持ちが最も強かっただろう。だが今、生後4ヶ月を育てている身になってから聴いたので、親が子を思う気持ちの大きさを第一に感じてしまった。子の因縁を晴らすためなら100両なんてぽんと出せてしまう。1両10万くらいと聞いた気がするので、それでも100両を出せてしまうほどの愛情というものを想像してしまったのだ。産まれた直後からどれだけ手塩にかけて育ててきたのか。その命が短命に終わり、しかもそれが因縁であるならばどれだけ辛いのか。
ともかく奇妙院はそのようなことをお構いなしに110両を持って帰宅するが、なんと家の中に権太がいる。実は奇妙院が権太に盛った薬の量が少なすぎたため、権太は命拾いしていたのであった。奇妙院は権太に、持ち帰った全てのお金を持ち去られてしまう。
この長い話を聞いた畔倉は「つまらねぇな」と言うが、奇妙院がすかさず「音が鳴ったからだ」と返す。前の一席での携帯のくだりを完全にネタに消化させる手腕よ……!最高だった。
ちなみに自分は奇妙院の話はおもしろいと思った。単体で聞けば悪党なのかドジなのかわからないような、ピンボケ感があり締まりのない話かもしれない。が、それが連続読みの中にあり、畔倉が捕まった後の重みのある展開が続く中に挟まるのは、フィナーレの前に聴き手の張り詰めた気持ちを一度緩められてバランスがとれるのではないか。思えば、連続物は一席ごとにオチや話の要点が必ず入っている必要はない。締まらない話にも一定の役割を担わせられるのは、連続物のおもしろさのひとつかもしれない。
牢屋敷炎上
畔倉は奇妙院に計略を授ける。畔倉は他人に分からない場所に800両から1000両ほどの金を埋めてあるという。奇妙院が釈放されたら牢屋敷に火が回るように風を見て近隣で火事を起こし、“牢払い”という囚人を一時解放させる規則を用いて畔倉を逃がす。成功したら、埋めてある金の半分を奇妙院のものにするという。畔倉の話が本当か否かは明らかにされないが、おそらく嘘なのではないか。しかし、畔倉が金を持っているのは事実なので、奇妙院が計略を成功させれば金は渡したのではないかと思う。
だが奇妙院はついに絶好の風が吹いた日、火をくべたまま寝てしまい、はっと目が覚めた時に!なんと、伯山の張扇が飛んだ。笑いとざわめきが起こる会場で「ご安心ください!」と懐から出てくる別の張扇。笑いと拍手が巻き起こった。X(旧:Twitter)で見ていると、どうやら東京公演でも張扇が飛んだらしい。その時に予備はなかったようだが、東京では一体どのような展開になったのだろうか。そして名古屋のは偶然か計算か?
さて話の続き。奇妙院は自分の家から出火させてしまう。自分の袖に火が燃え移り、慌てて外に出て建具屋に入りカンナくずの中に飛び込んでしまう。それから更に無惨なことになり(自主規制)、奇妙院は命を落とす。火は畔倉の経略通りに牢屋敷の方へと燃え移る。
あらすじを書きながら気づいたのは、奇妙院が肝心なところでマヌケな人間であることだ。以前は毒薬の分量を間違えて兄貴分を殺し損ね、今回は重大な事を起こすための火の世話を忘れて寝るわ、火がついた体でカンナくずに飛び込むわ。奇妙院の最期を描くためにも、“奇妙院が罪を語る50分”が効いてくるように感じる。
さて、飛ばされて舞台の板の上に落ちたままの張扇は、伯山先生が下がった後にコソコソっと出てきたスタッフに回収された。会場は温かな笑いに包まれた。
重四郎服罪
さて、畔倉の経略通りに牢払いが行われることとなり、囚人達は「3日のうちに戻るように。戻らない者には後で重い処分が下る」と言われて一時解放される。しかし、どのみち死罪を避けられない畔倉は牢屋敷に戻る気はさらさら無い。どこへ逃げようかと考えているうちに、すぐに大岡越前守の行列に見つかり拘束された。大悪党のくせにここではあっさりと捕まってしまうのが不思議なものである。そして大悪党であるから牢払いされた身なのに逃がしてはもらえない。
その後の畔倉はほとんどの罪を認めるが、最初の穀屋平兵衛殺しだけは認めない。どうせ死罪になるのならせめて城富を困らせようと思ったのだろうか。しかし城富が「真の下手人を見つけし時、必ず大岡越前の首をいただくと約束しているのだから本当のことを言ってくれ」と言うと、畔倉は大岡越前の首のために平兵衛殺しも白状した。畔倉が全てを白状した時、大岡越前守はなんと奥から穀屋平兵衛を呼び出す。穀屋平兵衛は大岡越前守のいつかの切り札として匿われていたらしい。城富は父との7年振りの再会を喜び、畔倉はしまった騙されたという顔をする。大悪党も話の終わりに近づくとまんまと策にはまっているのが不思議なものだ。今までとは対照的にあっさりと顛末に向かうのには拍子抜けしてしまう。ただ、何かあった時のためにと穀屋平兵衛を隠していた大岡越前守の計略は流石であった。平兵衛の息子までもを騙して見事に真相に辿り着いた。もちろん父との再会を果たせた城富は大岡越前守の首を貰い受けることもない。
いよいよ畔倉が処刑される時、最期に「俺は好きに生きた。お前らは年老いてからああしてりゃよかったこうしてりゃよかったと嘆くだろう」などと言い残した畔倉に、大岡越前守は一言「さようであるか」とだけ言い残したと伝えられている。畔倉のような生き方は望まないにしても、考えさせられるものだ。法に触れない程度に好きに生きるのか、あるいは我慢して諦めながら生きるのか。我々は大悪党に問われてしまう。これだから大悪党の話がおもしろいものとして語り継がれているのだろう。
すべてを聴き終えた充実感を得ての大団円。最後は三本締めで……という流れだったが、どうもスタッフとの打ち合わせはなかったらしく、伯山先生が再び話し始めると、いつも通りに下りかけた幕が止まって戻っていき、音楽は鳴り止まない。「普通は話し始めると音楽が止まるんですが。スタッフに伝えていなかった私も悪い」と、またハプニングが笑いに変わる。「新年早々目まぐるしい毎日が続く中、毎日淡々と足を運んでくださったお客様に感謝いたします」との挨拶を聴き、つい「平和っていいな」と平和であることの良さを噛み締めてしまった。平和だから6日間連続読みというものが実現できて、こちらも呑気に通えたのだ。芸能の進展は平和あってこそだなとまで考えを進めてしまい、つい壮大なことを考えていた自分にハッとして我に返った。
個人的には出産後初の生の演芸であった。その前には、いつか伯山先生を正面から見られなくなる日が来るかもしれないという思いをどこかに抱えながら観ていた時期もあったが、子育てという重大ミッションを抱えたおかげでその思いは消え、純粋に楽しめた。
いよいよ本当に幕が閉まる、という段になると音楽もかからず幕も閉まらない会場。鳴り響く拍手の中で伯山先生はマイクに一言「音楽かけていいよ」。語尾にハートが見えた気がするのは気のせいか?ハプニング対応までもが見応え抜群な最終日であった。
『畔倉重四郎』を連続読みで楽しむ6日間。総じて贅沢で幸せな時間だった。
毎年名古屋で連続読みをやってくれている伯山先生、あと20年ほどやってくれたら子育てが一段落したところでまた参加出来ると思うので、よろしくお願いします。そして生後4ヶ月を毎日引き受けて「育休のうちに行ってきな!」と送り出してくれた相棒、本当にありがとう。この後はまた日常に戻って、壊れない程度にがんばります。
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