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祖父のアルバム

祖母が3年前に亡くなった時、遺品のアルバムを譲り受けて保管していたのだけど、少し時間ができたので引っ張り出してみた。その中にあった祖父のアルバムには祖父が若かった頃の写真と、ちょっとしたメモ書きが残っていた。終戦日にあたる今日、祖父の戦前〜戦後に至る写真とメモをここに残しておこうと思う。祖父のメモはキャプションに、あとは私が知っている範囲の解説を添えておく。

祖父は今から27年前、平成九年七月に76歳で亡くなった。祖父は大正10年(1921年)生まれだ。

◯◯君 4年後輩
未来に幸あれ(中学卒業時)
中学卒業時
未来を誓う(中学卒業時)
友人達

最初の写真からここまでは旧制中学校卒業時に撮影した友人達との記念写真と思われる。ずいぶん後(昭和60年)になって集まった同窓会の写真も残されており、旧制中学校の名前は鹿児島県伊佐市にある県立大口中学校。現在は鹿児島県立大口高等学校とわかった。

満鉄入社(王道楽土建設へ)  制帽制服よく似合う
新京(現民春)にて
牡丹江にて 馬賊みたい
牡丹江にて 兄と
大連にて(小生入院す)

祖父は戦時中は満州にいて、満鉄(南満州鉄道株式会社)で働いていたという話は母や祖母から少しだけ聞いたことがあるが、祖父が健在の頃、私は先祖の歴史というものに全く興味を持っていなかったので、直接当時の話を聞く機会はなかった(一緒に暮らしていた頃もあったのに!)。祖父も基本的に寡黙な人であったので自ら昔話を語ることもなく、今にして思えば、あの頃聞いておけばな〜と残念でならない。

写真を見る限り満州各地を転々としていたようだが、牡丹江の写真が多い。昭和55年に撮影された集合写真に「第4回 満鉄牡丹江工務区会」というものがあったので、やはり主に牡丹江で仕事をしていたのだろうと思われる。

横浜にて(感無量) 今生きのびて此の日を迎う!!
新婚旅行は熱海(松濤館)  小生28才 妻22才
昭和23年4月18日 食糧統制時代 米持参にて新婚旅行
未来に幸あれ

祖母との結婚写真。食糧統制時代だったので、米を持参して新婚旅行に出かけたと書いてあるのがなんとも時代を感じさせて良い。調べてみると熱海の松濤館はまだ存在するようなので、熱海に旅行する機会があれば行ってみたい。

横浜にてと書いてあるが、祖母が時々馴れ初め話をしてくれた。祖母は桜木町の駅前にあるデパートの和菓子店に勤務していた。そこに満洲から引き揚げてきた祖父が出入りしていて、声をかけられたのだと。今で言うナンパのようなものだろうか。結婚した後はそのまましばらく横浜の元町で生活し、瀬谷、早稲田へと生活拠点を移していった。私が生まれた頃は早稲田におり、幼稚園くらいまではそこで生活していたので母に連れられてよく行った。たかだのばばは婆が住んでいるからばばなのだと幼い頃は思っていた。

思ひ出 横浜にて
父 突然横浜に来る 鎌倉に案内す

この写真に書いてある父というのは当然祖父の父のことなので、私から見ると曽祖父のことだ。おそらく鹿児島から連絡もなしに突然横浜までやって来たのだろう。当時は連絡手段も乏しいので仕方のないことだろうとは思うが、私の母が小学生の頃だったらしく、うっすらとその時のことを覚えていた。なんでも突然やって来て、家のちゃぶ台の上に腰をかけて偉そうに振る舞うので、このお爺さんはなんなんだ!と、とにかく驚いたそうだ。命日を調べると昭和37年。私の母は昭和28年生まれなので、おそらくこの訪問の後、わりとすぐに亡くなってしまったのではないかと思われる。

戦前〜戦後にかけての写真ではあるが、良い思い出のことしか記録として残されていない。結婚写真に書かれていた「今生き延びて此の日を迎う!!」というメモから察するに、満洲から引き揚げて来た時など、命からがらに相当大変なこともあったと思うのだが、そういった記録は残されていなかった。

このアルバム自体は私や妹の子供時代の写真も挟んであったので、おそらくずいぶん後になってメモを書いて編集したものだと思われる。祖父にとって戦争とはどういうものだったのだろう。満鉄入社の写真に「王道楽土建設へ」というメモを書き添えた祖父。そんな祖父の生前の姿に思いを馳せる終戦の日。また時間のある時に色々と調べてみようと思う。

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