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おばあちゃんとの日常が大好きだった

私には世界でたった一人のおじいちゃんとおばあちゃんがいます。
父方の祖父母で、私が生まれた時から二世帯住宅で一緒に暮らしていたので、20年近くの時間を一緒に過ごしました。
母方の祖父母は、私が生まれるずっと前に亡くなっているので、おじいちゃん、おばあちゃんとは呼ばず「お母さんのお母さん」「お母さんのお父さん」という呼び方をしています。

2020年2月、コロナ禍に差し掛かったある日、おじいちゃんが亡くなりました。

そして、つい3日前におばあちゃんが亡くなりました。

正直おばあちゃんは、「孫思いの優しくて穏やかなおばあちゃん」とは言えなかったかもしれません。「ぶっきらぼうで、少し強引なところもあるけど、ちゃんと私たちを思ってくれたおばあちゃん」だったと思います。

一階の居間で笑点を見ているおじいちゃんおばあちゃん

おばあちゃんは、誰よりも私を叱り律してくれた人でした。大人になって、そしておばあちゃんとお別れをすることになって初めて、私のことを一番叱ってくれた人はおばあちゃんだったことに気づきました。

今日は、おばあちゃんとの思い出について書きたいです。

家の内線電話

私の家は二世帯住宅で、一階と二階を繋ぐ内線電話がありました。一階の居間でおばあちゃんが電話のボタンを押すと、二階の居間の電話がビーっとなります(けっこうな音量でびびる)

物心着いた頃から、二階で私が走り回ったり、泣きわめいたりするとビーッという音が鳴り、「なんぼさしねっきゃ」「何時だど思ってらんだば、静かにさなが」と叱られたのを覚えています。下からの内線が鳴ると叱られると思ってすぐ自分の部屋に逃げ込んで、後のことはお母さんがなんとかしてくれていました。でも、おばあちゃんに謝りにいきなさいと言われて謝りに行ったのも覚えています。

畑の苺

5歳くらいの時、家の畑になっていた苺を内緒でばくばく食べていたら、おばあちゃんにそれを見られていて思いっきり叱られたことがありました。その時は「苺くらいいいじゃん、おばあちゃんのケチ!」と思いました。

畑仕事をするおばあちゃんとそれを手伝う長女

なんぼかちゃくちゃねっきゃ

小学1年生くらいの時、友達と泥だらけの服のまま家に入ろうとしたら「泥ほろこってから入んなが、汚ねくてまいね」とか、私が下の居間をぐるぐる走り回ったりドアノブにぶら下がったりして遊んでいると「なんぼかちゃくちゃねっきゃな(本当に落ち着きがないな)」と言われたりしていました。その時は叱られてるとしか思えなかったけど、それすら懐かしくて、またあの津軽弁が聞きたいです。

辛抱しねばまいねよ

おばあちゃんはよく「辛抱しねばまいねよ」「いだわしい(もったいない)」と言う言葉を口にしていました。必要最低限の食料だけ買ってほぼ自給自足で賄ってると言っても過言ではないくらいの倹約家でした。

Tシャツとヤクルト

おばあちゃんは買い物にあまり行かないので、おばあちゃんと一緒に買い物をしたことはほとんどなくて、でも小学3年生くらいの時におばあちゃんが私を軽トラの助手席に乗せてエルム(地元のショッピングセンター)に連れて行ってくれたことがあります。2階の服屋でTシャツを買ってくれて、それがすごく嬉しくてどんな柄だったかも今でも覚えています。

その後1階のスーパーに寄って、私が買い物かごに10本入りのヤクルトを入れたら、「そったに飲まねぇべや」と6本入りのヤクルトに変えられて「おばあちゃん、やっぱりケチ!」と思って家に帰ってからお母さんにそれを伝えた気がします。

働き者のおばあちゃん

おばあちゃんは本当に働き者で、家の畑仕事や田んぼの他にもパチンコ屋の換金所とか、りんごの収穫の時期には一日中働き詰めで、働きすぎじゃないかと心配になるほどでした。いろんなりんご畑から声がかかるくらいりんごもぎのプロだったみたいです。

階段の真ん中あたりに置いてある

おばあちゃんは決して料理上手ではなかったけど、よく料理を階段の真ん中あたりに置いておいてくれて、「きみ茹でだね、かなが(とうもろこし茹でたから置いておくよ)」とか、「ママ!(私のお母さん)○○(料理名)!」って階段の下から叫んだりしてました。
それを聞いて、私が階段の真ん中あたりまで降りておばあちゃんの料理を二階に運ぶとか、そういうこともたくさんありました。今となっては、おばちゃんが下から叫ぶ声も全部懐かしくて、恋しいです。

豆ご飯

おばあちゃんが炊く豆ご飯が大好きでした。おじいちゃんと一緒に畑で育てた豆を外に何日も乾かして、殻を取って、その豆をご飯に入れて炊いた豆ご飯。
あれにたらこをのせて食べるのが大好きでした。でもおじいちゃんは豆ご飯が嫌いで、豆ご飯の日はちょっと文句言ってたな。

おばあちゃんのポテサラ

おばあちゃんがたまに作って階段に置いてあったポテトサラダにはたぶんマヨネーズの他にコンデンスミルクが入っていて、でも隠し味というよりはけっこうコンデンスミルクの味がして、すごく美味しい!ってわけではないけど、おばあちゃんの味って感じがして、また食べたいなぁ。

教習所の送り迎え

大学を卒業する年の長期休みに地元に帰って教習所に通いました。その時何回もおばあちゃんに教習所まで車で送ってもらって、あの軽トラの揺れる感じも、カーブの時「よっこらせ!」って出すおばあちゃんの声も、全部が懐かしいです。どんな会話をしながら教習所に向かったのか、あまり思い出せないけど、ちょっと畑の泥の匂いが残ったような軽トラの車内の匂いも、全部おばあちゃんとの思い出です。

りんごの渡し方

下の居間に新聞紙を敷いて真ん中にボウルを一つ置いて、夏になるとすいか、秋にはりんごをみんなで食べました。おばあちゃんが切るりんごはサイズが大きくて、1/4くらいに切ったりんごを包丁に刺したまま「か」と渡してきます。サイズでかいなぁと思いながらも「おばあちゃんが剥いてくれたりんご」っていう感じがしてすごく美味しかった。「いだわしいばってな(もったいないけどね)」と言いながらも小屋の倉庫にある一番美味しいりんごを持ってきて私に蜜たっぷりのりんごを食べさせてくれる、そんなおばあちゃん。

ぶっきらぼうで、乱暴なところもあるけど、実は誰よりも繊細な人だったと思う。

デニッシュパンとバームクーヘン

おばあちゃんとのお別れの前に、おばあちゃんが好きだったユニバース(地元のスーパー)に売ってるデニッシュパンを買いに行きました。おばあちゃんはデニッシュパンとバームクーヘンが大好きでした。亡くなる前に持っていって食べさせたかったなぁ。でも、自分がおばあちゃんの大好物を知ってることを私は誇らしく思うよ。

高額な散髪料

2018年に一年間青森に住んでいた時だったと思います。「髪が伸びてきたら切ってほしい」と言われて下の居間でおばあちゃんの髪をカットしました。私は人の髪なんて切ったことないから上手くできるかわからないよと言ったら「どんでも短くなればいいんだね(とにかく短くなればいい)」と言われて、おばあちゃんの髪を切りました。おばあちゃんの柔らかい髪の質感もなんとなくだけど、触った感触を今でも覚えています。散髪料として1万円をくれて、今思うとただお小遣い渡すのも小っ恥ずかしいから髪切らせたのかな?と思ったり、そういうところもおばあちゃんらしいなと。

最後に会った時のこと

去年のお盆休みにおばあちゃんのいる施設に行って、ガラス越しだけどおばあちゃんに会いました。まさかあれが最後になるとは思っていなくて、もっともっと会える時間を大切にすればよかった。

少しだけ認知の症状が進んでいたけど、私の顔を見て「おめだばわがるね、綺麗さなったな」って言ってくれた。もっとしてあげられることがあったのに、とか、おばあちゃんをもう一度お家に帰してあげたい、とか、そのためにどうしてあげられるのかな、とかいろんなことを考えていたけど、あの時の言葉と表情だけで心が救われた気がしたし、あの柔らかくて優しい表情が忘れられません。

今日おばあちゃんと最後のお別れをする時
「お家でいっぱいうるさくしたけど、たくさん叱ってくれてありがとう」と伝えました。

4年前におじいちゃんが亡くなって、去年は愛犬をなくし、とうとうおばあちゃんまでいなくなってしまいました。

苦しいけど、最後ちゃんとお別れができて、本当によかったです。

おばあちゃんと私の思い出はここには書ききれないほどたくさんあって、全部私の財産です。

苦しい中で今泣きながら文章を書いているのは、気持ちが大きく動いた時にこそ、その気持ちを鮮明に文章に残しておけると思うからです。

今こんなに苦しいけど、この気持ちさえも時間が経つと鮮明には思い起こすことができなくなるかもしれません。

居間に新聞紙を敷いてみんなでりんごを食べる日常、
日曜日に笑点を見て大笑いした後すぐ寝室に向かってしまうおじいちゃん、その後台所で皿洗いをして寝る支度を始めるおばあちゃんが出すいろんな音、
冬におじいちゃんとおばあちゃんの雪かきの音で目覚める日常が大好きでした。

生まれ変わってもまたおじいちゃんとおばあちゃんの孫に生まれたいです。

少しでも前を向けるように進みたいと思います。


ずみ。



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