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手持無沙汰:異能バトルについての所感

異能バトルの醍醐味

そもそも異能バトルの魅力は何かってことなんですけど。
個人的には2つの軸があります。

・異能力という超常現象を理屈で説明する

・弱いが汎用性の高い能力で大技を披露する

主にはこの2つが魅力だなって思います。

前者の「異能力という超常現象を理屈で説明する」について。

どういうことかって話。
ちょうどいい例が「文豪ストレイドッグス」です。それも番外編の京極夏彦vs綾辻行人ね。これ文章で読める異能バトルものとしていま一番面白いです。

んで、その作品の中で異能についてこんな言及があるんです。

・異能→現象に「システム」がある≒操れる
・怪異→現象に「システム」がない≒理不尽

異能は発動の仕方を熟知し発動条件を満たすことで制御可能であることが前提にあります(制御不能に陥るところも含めて”設定”ですよね)。

対して怪異は、少なくともの登場人物にとっては制御不能の理不尽な存在です。得体の知れないミステリアスな雰囲気が、そのまま怪異の恐ろしさになります。

僕は初めてこれを読んだときにひどく感動したものです。朝霧カフカすげえ……って。
以降、僕は異能力に理屈を求めるようになりました。少なくとも作劇において、異能のシステムが受け手に伝わらなければなりません。

他の例で言うと「アベンジャーズ」でマイティ・ソーの雷撃をアイアンマンが食らったときに科学でのエネルギーに換算したシーンも感動しました。
異星人の攻撃を地球上の科学で解釈する……ここに理屈があるように思えて。

後者の「弱いが汎用性の高い能力で大技を披露する」について。

異能バトルの金字塔「とある魔術の禁書目録」に登場する御坂美琴。
彼女はレベル5の第三位ですが、その地位にいる理由は他でもない汎用性です。

つまり能力としては「電気を生み出して操る」っていうシンプルなものなんですけど、とにかく応用の幅が広い。
電磁石を発生させて金属を操るとか、弱い電磁波で自販機を誤作動させるとか。
無意識に電流(A)を弱めて電力を低くしていたから主人公に攻撃は通らなかった――みたいな下りもありましたよね。

御坂美琴は普通に強キャラなのですが、要するに異能を応用するっていうのは紛れもなく魅力だと思うんです。

能力そのものに攻撃力はないけど便利だよね、っていうのも良いです。
「HUNTER×HUNTER」の4次元マンションとか正しくそれです。

能力に応用の幅があると単なる肉弾戦になるのを防げるメリットもあります。
逆に言うと身体強化みたいな能力は戦闘シーンが単調になりがち。個人的には主人公が身体能力は好きじゃないです。むしろ敵キャラが身体能力で理不尽な体力をぶつけてくるのを、能力で工夫して倒す方が好み。

逆に難しい理屈で能力を応用させて……っていうのを放って”とにかく理不尽に強い”に振り切ったのは五条悟だと思います。
そもそも「呪術廻戦」でグッとくるのは人間心理の部分ですよね。五条悟の弱点は能力そのものというより、夏油傑っていう人間の存在だった――オーソドックスですが引き込まれるドラマです。

その能力はどこから?

異能バトルものを考えるにあたって、「その能力の出どころはなに?」って部分を考えますか? 個人的にはまずここを埋めたいタイプ。

よくあるのは「生まれつき~~」ってやつ。アマチュアのしょーもない異能バトルはだいたい生まれつき異能力を持っています。
後天的に異能を身に付けるきっかけを考えるのって面倒くさいですしね。

一方で後天的な能力の習得そのものにドラマが生まれるパターンもあります。
「キャプテンアメリカ」とか超人血清そのものが物語の重要なマテリアルになっていますしね。

そもそも「能力はどうやって発現するのか?」っていうのは、受け手にとってはそこまで重要なことじゃなかったりします。
例えば「Charlotte」っていうアニメご存知ですか?
Key制作の最終回以外は良い感じの作品なんですけど、あれは「高校生くらいの若者が稀に発症する病気」的な感覚で異能を描いています。だから成長に連れて能力は失われていくんですよね。

んで、じゃあ「Charlotte」で能力を身に着けるのがどれだけ重要かって話なんですけど。ハッキリ言って大した問題じゃないんです。
むしろ能力を発現したキャラクター達がどんな物語を描いていくのか? っていうのが肝になるわけです。

受け手は能力の発現のプロセスを重視していません。
じゃあどうでもよくね?ってなると思うんですけど。

問題なのは、能力習得の過程が曖昧だと作者の側がブレるってことなんです。というよりアイデアを出す取っ掛かりを見失いません?

「とある魔術の禁書目録」に見られる異能は”魔法”だったり”超能力”だったりしてますが、ほぼほぼ元ネタになる古典やいわれがあります。
要するに「魔法って歴史的にはこんな感じだよね」っていうアプローチで魔法を出したり。
超能力については「学園都市で能力開発を教育プログラムに組み込んでいる」っていうのがあるわけですけど、瞬間移動とかサイコキネシスとか心理操作とか。超能力と言えばコレ!っていうものが多いですよね。
まあ「一方通行」とか「未元物質」とか、作者のオリジナル能力もありますけど……。逆説的に言うと、魔法の側には組み込み難いオリジナル能力でも矛盾なく登場させるシステムを作品に設けられているってことですよね。鎌池一馬やっぱりすごい。

能力をどうやって身に付けるか。
ここはどうかサボらずに設定しましょう。長期的に見たときに必ず楽になります。

世間は何をしているか

異能力が世間からどう見られているのか。これは結構大きな問題になります。

「文豪ストレイドッグス」では、隠されてるわけではないけど一般的じゃないし認知度もまだまだ低い、くらいの位置付け。
「とある魔術の禁書目録」では、周知されているけど世間の理解度は低い、くらいの位置付け。
「僕のヒーローアカデミア」では、全員が全員異能を持っているけどその強さに序列はあるよ、みたいな位置付け。
「呪術廻戦」では、そもそも能力を認知できるかどうかがそのまま人間の強弱に直結する+一般人には積極的に隠したいです、みたいな位置付け。
「SPEC」では、一般人にも認知できるけどおとぎ話に思われてる、くらいの感覚。

異能バトルに限らずあらゆる作品では人間関係が物語を大きく動かします。
異能力が世間にどう受容されているのかは、登場人物が関わる人物の母数に結び付きます。

異能者である人物に対して、一般人はどのように接するのか。
あるいは異能者同士の関係性を、世間はどのように見るのか。

人間模様の生まれる気配がしますね。

人間関係以外でも、物語が進むに連れてバトルの規模は大きくなるのが常というもの(そうでない作品も当然ありますが)。

世界を巻き込む大規模な戦闘が起きた場合、社会が異能に対してどんな反応をするのか。政府はどのように動き、大衆はどんな声を上げるのか。
そこを考えるのは楽しみでもあり煩わしくもあります。

「とある魔術の禁書目録」ではアメリカ大統領は魔法にも超能力にも理解がありました。
「文豪ストレイドッグス」では異能がある程度認知された上で、政府は異能という概念を加味した動きを見せています(大衆は現象そのものに振り回されます)。
「ONEPIECE」では悪魔の身の能力は周知の事実です。

そういえば「呪術廻戦」では七海建人が一般の人と交流を重ねる場面もありましたね。
異能者が異能とは関係のない場面で心を動かされ、そしてそれが異能の世界に多かれ少なかれ影響を及ぼす……というのも作劇の妙に思えます。

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