スマホが生活の一部になっているのか?
どうせならアドベントカレンダーを埋め尽くしたい。
(本記事は「TKBGSK(筑波大学現代視覚文化研究会) Advent Calendar 2023」に掲載しています。)
そうであるならば、私が、書きまくればいいのではないだろうか。
そう。全盛期のように。
今私はこれ書くためにタイピング用のキーボードを使っています。もりもり書ける。でも本当はmacで書きたい。自動で変換してほしい。winはいちいち変換しなきゃなのが面倒っすな。誰かmac miniください。
さて本文。
先日、授業始まる前の話です。
私は自分の席に荷物をおいて、スマホもほっぽらかして友達のところに行って話をしていました。(大きな教室なのにスマホを机に生身で置きっぱなしにできる危機感の無さは置いておこう。)
これは別に悪いとは思っていませんし、現代普通なことなので、決して否定的な表現ではないのですが、友人たちは話している途中でもスマホを触って作業を続けるんですよね。
かたや私はスマホほっぽらかしてるので、手元になくて、でも一切それが苦痛に感じませんし、無いならないで困らないし。ちょっとこの感覚って不思議だなって思ったわけです。
これは私のスマホに対する意識の違いが現れています。つまり、私はスマホをただの「道具」として認識しているのです。道具であれば持ってこなくっても、ずっと触ってなくても困らないんですよ。必要なときに必要な様に持っていればいいだけの話なのです。
対して、彼らはもはやスマホは「生活の一部」なんですな。スマホを触っていることが普通になっていて、道具ではなく、体の一部かのように使っているわけです。繰り返しますが別に話してるときにスマホ触ることが悪いことだと言いたいんじゃないです。そういう行動を(おそらく無意識に)取ってしまっているのが面白いな~と思っただけです。
ちなみにこれ、ナントカさんのスマホ脳っていう本に書かれているらしい。
悔しい、私が考えていることはどこかのイキリ印税ウハウハ思想家も考えているんですね。ただ負けないよ、私。あんたはお部屋の中から観察して見つけたのかもしれないけど、私はその環境に身をおいて実体験したんだからね。ふん!
現代の小学生とかってもうこうなってるんですかね、要は「スマホ→生活の一部」という考え。考えというより、習慣だろうな。
私にとって腕時計って外せないキーアイテムなんです。時間を常に気にしがちなので、無いとウズウズします。これって似た感覚かな?もう腕時計があることが当然の生活なので。
う~ん。若干違う。なぜなら彼らはスマホを取り上げてもなんとも思わないのだろうから。無ければ無かったで「無いな~」くらいに思ってそう。ただ、違和感は感じるかもね。私の腕時計に関しては「ああ!無い!」って結構イラつく。
要点は
私はスマホを「道具」と見なしているので、スマホがない環境をなんとも思わない。
どうやら友達はスマホが有ることが普通であり、四六時中触っていることが当然の「生活の一部」になっている。
ただ一方で、取り上げられたからと言って「無いな」と思う程度で禁断症状のようなことは起こらなそう。
私と異なって、スマホが「無い」という認識をしそう。私にとってはスマホを「置いてきた・使ってない」という感覚。
どうです?あなたはスマホを道具だと思ってますか?それとも生活の一部?
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