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クォンタム・ファミリーズを読んだ

ありがたいことに読書習慣が抜けずに続いているので、色々読んでいる。先日はクォンタム・ファミリーズを読んだ。

村上春樹のいくつかの著作に共通して表現されている「三十五歳問題」の存在を下敷きにして展開するSF小説。主人公の葦船往人は三十五歳を超えて燻っている挫折した元小説家。現在は大学教員として口に糊しつつ、妻との不和や鬱病を抱えて生活している。妻との間に子供はいない。そんな往人の元に、彼の娘を名乗る人物からのメールが着信する。メールの日付は27年後。往人は半信半疑のまま未来の娘との文通を始めるが……という話。

こうして書くと心温まるファミリーものが始まりそうな気配がするが、そういう感じの話ではない。往人は複数の並行世界に存在する妻や娘の繰り広げる騒動に巻き込まれ、あったかもしれない可能性に魂を摩耗させていくことになる。この「あったかもしれない可能性」が作中テーマの一つである。

ひとの人生は、過去になしとげたこと、現在なしとげていること、未来でなしとげるかもしれないことだけではなく、過去には決してなしとげたことがなかったが、しかしなしとげられる《かもしれなかった》ことにも支えられている。そして生きるとは、なしとげるかもしれないことのごく一部だけを現実になしとげたことに変え、残りのすべてを、つぎからつぎへと容赦なく、仮定法過去のなしとげられる《かもしれなかった》ことのなかに押し込めていく作業だ。そして、三五歳を過ぎると、そのなしとげられる《かもしれなかった》ことの貯蔵庫は、じつに大きく重くなってしまう。

東浩紀(2009)『クォンタム・ファミリーズ』新潮社 p.252-253

三十五歳頃に「未来になしとげるかもしれないこと」が「なしとげられる《かもしれなかった》こと」の比重が逆転するぞ! というのがこの問題で語られていることの要旨。今風に言うとミッドライフクライシスが発生する機序がこれなのかも。加齢に応じて世界が閉じていく感覚というか……。

これに立ち向かうため、往人は最後にある決断を下す。正直なところ、それにはあまりピンと来なかったのだが……それは僕がまだ三十五歳になるまで間を残しているからというだけかもしれない。それでも複数の並行世界と時間を超えて離散集合する量子的な家族模様は非常に読み応えがあって、大変楽しい読書体験することができた。三十五歳問題に直面している、した覚えのある人も、これから直面する予定の人も、一度は読んでみる価値があると思います。




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