結婚と愛について

34歳になっても愛がよく分からないので、考えをまとめた。

数年前に結婚したが、25歳ぐらいまではもともと他人と付き合うつもりもなく、結婚せずに生涯独身で過ごすつもりだった。他人と付き合いたくない訳ではなかったが、人格は見事に破綻していたし、イケメンの部類ではないし、恋愛よりも音ゲーでスコアを詰めることが人生の全てだと思っていたので、他人と付き合うことについてはほとんど諦めの境地に立っており、まさか将来結婚するとは想像すらしていなかった。

数年ほど同棲してからなんだかんだ結婚したものの、結婚という行為の意味を理解せず、愛が何なのかも知らず、最終的に世間の慣習に従って結婚したと言っても過言ではない。税制上のメリットがあり、双方の家族へ覚悟を見せて安心感を伝えられるという合理的な理由については十分承知していたが、非合理的な部分で自分の人生がどう変わるのかについては予想がつかなかった。

もちろん人生は複雑すぎるので、「分からないからやらない」というスタンスよりも「やってみないと分からない」というスタンスを取る方が最終的に得をすることは多いし、結婚もその例に漏れないと思う。あくまで個人的な意見だが、同棲して大丈夫そうなら結婚してみて、どうしても合わなければ子供ができないうちに離婚すればいいと思う。

(子供ができてから離婚するのは子供にとって辛いので良好な関係を維持するよう努力すべきだと思うけども、それに失敗して冷え切った関係を子供に見せ続けるのもまた辛いだろうし、この話は難しいのでしないことにする。)

当然ながら離婚する前提で結婚したわけではないが、自分の場合は結婚することで人生がどのように変わるか分からなかったので結婚したとも言えるし、他の人も理由は違えど「付き合いの先には結婚があるものだから」ぐらいの理由で結婚しているのだろうと勝手に想像している。

ともかく、良い悪いという一言で片付けられられないほど結婚や離婚は複雑な行為だ。いくら考えたって未来予知など誰にもできないし、その場では最善な選択肢だと思っていても人間は成長もすれば老化もする生き物なので、数年数十年経ってから後悔することもある。そして、その逆もまた然りだろう。やってみないと分からない。

日本には「結婚は人生の墓場」という言葉が昔から存在するが、墓場という言葉とは裏腹に、結婚生活は変化の連続だと思う。良い関係を維持するためにはお互いに努力しなければならない。完全に自然体で関係が維持できるのであればそれに越したことはないが、価値観が完璧に同じ人間というのはまず存在しないと思っていい。

価値観と言うとなんとなく1つの概念に聞こえてしまうが、細かく分けていくと非常に複雑な基準だ。

  • 人生において家族の重要度はどれほど高いか

  • 子供は何人欲しいか

  • 仕事はいつ誰がどれほどすべきか

  • 信仰する宗教はあるか

  • 応援している政党はあるか

  • 美術的な感性は合うか

  • 食事の味覚は合うか

  • 酒の趣味は合うか

  • どのような趣味を持っているか

  • どれだけ社会貢献したいか

  • どのぐらいの金額の生活レベルを維持したいか

  • どちらがどの家事をどの頻度でしたいか

  • etc...

書いていくとキリがないが、これらが全て一致する人間はまず存在しない。なのでお互いに相手に合わせるか認めていかないと、価値観の相違からコミュニケーションに不和が生まれて嫌なところが増えていき、あっという間に一緒に住むことが難しい相手になってしまう。

結婚はお互いの制約になる一方で、こういった価値観の相違を能動的に埋める動機にもなると思う。もし結婚していなければ、価値観の相違が積み重なって一定のラインを超えた時に「やっぱり合わなかったね、他のいい人を見つけよう!」となって部屋を出ていけば全部簡単に終わってしまう。

そういう意味では、イケメンや美女は本当に大変だと思う。一般的には羨まれる存在ではあるものの、他人と付き合えるハードルが低いと、自分が相手に合わせるよりも、自分に合う相手を探す方が効率的だと判断しやすくなるんじゃないかと邪推してしまう。(イケメンじゃないので分からないが)

試行回数が増えるのは不確実な人生において基本的に良いことだが、完全に価値観が一致する理想の相手は確率的にほぼ存在しないので、試行回数を増やしても得られる結果の精度には限度があり、自然な自分のままで対等な関係を維持し続けるのは難しいと思う。

(完全に自分に合わせてくれるAI彼女/彼氏なんてサービスができたら怖いなとか思ったけど、本題とズレるので話をふくらませるのはやめておく。)

なので話は戻るが、結婚は人生の墓場ではなく、むしろ変化を要求させられ続ける試練のようなものだと思っている。お互いが譲れない価値観を戦わせながら、お互いを受け入れられるように成長しなければならない。日本の離婚率が上がりに上がって35%にもなっている現状を鑑みると、試練という言葉もあながち間違いではないだろうと感じる。

さて、「お互いを受け入れる」と言ったが、「受け入れる」という行為は簡単な言葉で表せないほど難しいものだ。これは単純な1動作ではなく長期間に渡って様々な事象が複雑に絡み合った結果、全てを総括して「受け入れられた」と言えるものなので、その場で相手を受け入れようと思って受け入れられるものではない。

たちの悪いことに、相手を受け入れるための価値観の衝突は、実際に結婚をする以外で真に経験することは難しいように感じている。結婚の前段階として同棲をすることで結婚生活をあらかじめ体験しようと試みることは多いが、これは結婚が前提にあるために「結婚するための一時的な我慢」と無意識に捉えてしまう場合があるし、法的な拘束力もなくいざとなれば簡単に辞められる「結婚ごっこ」に過ぎないので、結婚生活のリハーサルとしてはあまり役に立たないと思っている。

だからこそ結婚というものは本当に難しいと感じているし、同時に結婚によって得られる関係はかけがえのないものになるという印象もある。学校や仕事において何かの問題に直面したときに集団のせいにせず「自分が悪いから変わろう!」とキツい方に舵を切ろうと思うことはあまりないだろうが、結婚については問題の責任の半分が自分にあり、より強力に関係の変化を促してくれる。

自分の場合は付き合い始めから合わせると約10年ほどいまの結婚相手と過ごしていることになり、その過程で価値観の相違などの原因から口をきかなくなる程度の喧嘩は数百回としてきたが、紆余曲折あって結果的には仲良くやっている方だと思う。

結婚しているからという理由で消極的に自分の価値観を相手に合わせることもあったし、逆になにかのシステムを積極的に取り入れて問題の解決を図ったこともある。必ずしも全てが楽しい思い出ではなく、今でも気になるところがないかと言えばそれは嘘になるが、それでも意見をぶつけないよりはマシな結果になっているような気がする。

苦楽を共にするうちに日々の行動ルーチンや物事の判断基準に相手が入り込んでくることが自然になっていき、やがてどこまでが自分なのかの境界線が曖昧になってくる。日常生活に自分以外の人間がいることに何の違和感も覚えなくなったとき、初めてその相手が自分の一部に変化するのだろうし、そういった状態を嬉しく思うことを愛と呼ぶのではないかなと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?