【日記】中秋の名月

都心に住んでいると高い建物が所狭しと立ち並んでいて月を見る機会は物理的にほとんどないのだが、昨日は中秋の名月という名前の付いた見事な月が見られるということで、建物が少なくなるところまで外を歩いた。

月を見て美しいと感じるような人間ではなかったと思うが、月の形は見事にまん丸で、自ら光っているかのように明るく、ひんやりした風に季節の変化を感じていたのも相まって、不意に(もしかしたら月って美しいんじゃないか?)と思えた。

10年ぐらい前の自分であれば「いつ見ても同じ月をわざわざ見るよりBPM200ぐらいの曲に鍵盤の上で捻り潰されて前後不覚に陥る方が楽しくないか?」と天邪鬼していたと思うが、最近は趣味が変わってきたのもあって、月を見るようなゆっくりした楽しみも良いような気がしてきたのだ。

野鳥を見るようになってから常々感じるが、自然が同じ景色を見せることはほとんどなく、毎回何かの発見がある。適当に近くの公園に入っても普段と違う若いハトがいたり、聞き慣れない虫の声が聞こえたり、蜂に追いかけ回されたり、太陽の角度が変わって草木が違う雰囲気を醸し出したりしていて、同じ場所を通っても「全く同じ光景を前も見たな、デジャヴか?」となったりはしない。

同じように、変わらないと思っていた月も眺めていると思ったより色々な変化をしていることが分かった。月自体の形や光り方が毎日変わっていくのももちろん、薄い雲が掛かって光が淡く変わっていくのを見たり、雲に隠れて見えなくなったときに「雲隠れにし夜半の月じゃん」と微妙にテンションが上がったり、SNSでバズってる動画などと比べると派手さや動きこそ少ないものの、同じ景色は一度となく飽きることがない。

とはいえ月を見ていると内なる自分が(これをして何か意味があるのか?)と問いかけてくるのは否めない。ビジネスの名の下に骨の髄までコスパやタイパを叩き込まれた人間としては、勉強をするなり、ビジネス書を読むなり、Unityを捨てる努力をすべきではないかと心がざわざわしてくる。しかし、そもそも人生はコスパやタイパに支配された状態で生きるべきではないとは思う。

人生の進みが速すぎると思う。急展開する世界の情勢をニュースで知ったり、AIが日々進化したりするのを追っていると普通に情報量が多すぎて疲弊する。月を見ることでリラックスできるという合理的な言い方もできるが、もっと正しく心境を書くと、何もしていない状態に慣れたいというのがある。コスパやタイパを捨てて、月と自分だけが存在する瞬間を作ることで人生の進みが遅くなるような気がしたのだ。

とか言って明日にはまたハマってるゲームのSpeedrunをして、その後にENDYMIONあたりにぶち転がされてるのは目に見えているが、願望としてはそういう生活も悪くないかなと思えるようになってきたのは、年を取って変わったところかなと思った。また来年も中秋の名月を見に行こうと思う。


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