このノートに書きたいこと

 noteというサービスは以前から知っていたが、拗れた苦手意識をそれに対してずっと持っていた。クリエイティブと称される職業の人間や、そのような分野に関心を持つ人間が、行間ばかりをやたらと空け、耳障りや舌馴染みの良い新しい言葉を駆使して、捉えどころの無い話を綺麗にまとめたような、そんな投稿の多いイメージだった。概して、芸術にしてももっと後半なカルチャー論にしても評論などの分野では一つの考え方を提示する際、絶対的な一般解として帰納的に示すことはできず、相対的な解であることを自覚しながら反論に怯え自己防衛的に論を進めることしかできないため、言い訳がましい文章になる。それでも、主張に一貫した構成があれば十分面白い文章にはなるが、主張などなくただ洗練された響きだけをもたせたエセフレンチのような文章も多い。といって、別段そのようなイメージを覆されるような記事と出会ったわけでもなく、とらえどころのなさと折り合いがつけられたわけでもない。ただ、何か書く場を求めていて、ここより他にそのような場が見つからなかっただけである。
 以前は書く媒体としてtwitterを用いていたが、何かについて書く場として圧倒的に文字数が足りず、またあまりに義憤を感じる人間がtwitterに多いのに嫌気が差してtwitterと距離を取りたくなった。元々twitter歴の深い人間でもなくフォロワーの半分以上がリアルでの知り合いであったが、リアルで関係しなくてはならない人間でもツイートを見るとその平凡さや浅薄さを覚えてしまうことも多く、それもtwitterを辞める一因ではあったが、それはtwitterを辞める理由としてごくありふれたものだろう。

 ものを書くための既存の媒体の価値を否定していながら、結局それらのありふれたサービスに頼るほかないのは、単なる自分の怠慢である。これほど起業やアントレプレナーシップが称揚される時節においては、そのような違和感をビジネスチャンスと捉えて事業案に向けた具体化を強く求める向きもあろうが、そのようなアグレッシブさは自分にはないのだ。起業などとは全く関連のない文脈でベンチャー起業や上場企業の会社などに時々出入りさせていただいているが、所謂ビジネスというものに対する後ろめたさを悟られないように押し隠すので精一杯である。その話については別の投稿に譲る。

 本論に戻る。このノートに何を書くかであるが、その前に、ここまでの私の文章から私がどのような人間に見えるだろうか。実際にこの文章の読み手がどう受け取るかは、それと時空を隔てたところにいる私は貧弱な想像力に委ねるしかないのだが、非常に自己本位的な人間に写ったのではないだろうか。そのような感想が叙述トリックであったならば私も作家に向いていたかもしれないが、そのように受け取ったならばそのような人間なのであろうというのが実情だ。無論、自己本位的以外の感想を持たれている可能性もある。そもそも人間の自己分析なんていい加減なものだ。どれほどネガティヴな自己分析でさえも、その中に「自分は他人とは違うものであると思いたい」心理が少しも見えないことは難しい。自分にどのような属性も付与しないで自分という存在を認めることはできない以上、自分に何か特定の性質や気質があると前提してしまうことになり、その認知により行動にバイアスがかかるというのは往々にありそうなことだ。
 ともかく、私は客観的な評価や心理学的スコアに基づかない主観的な自己分析の結果として、自己本位的な傾向の強い人間だと考えているし、そう自認している。それにはとどまらず、他己本位的な傾向の強い人間については、どれほどその性向を理論的に正当化されようとも自分の物差しの上では納得のいく説明とはならない。世の中に持て囃されているからという理由で何かを追従すること、近年注目されてる技術・学問分野だというだけでそのキャリアを選択すること、それには「かっこいい」「魅力的」「知的」「優れた人間である」などと目されるからという理由で好きでもないものを趣味にすること、などどれも本当に不可解であるし、そのような態度を見るにつけて、それを当人の人格に対する評価に直結させないことが難しくなる。
 無論、このような態度をして「フェイク」であるとして断罪する向きも最近では見られる。このような向きそれ自体は「フェイク」ではない「オーセンティック」なものなのかというと、私はそれに対しても疑問を呈したい。というのは、これまで「フェイク」という言葉をしばしば用いる人にありがちな傾向として、「フェイク」な人間かどうかの判定に躍起になるばかりか、人を「フェイク」だと断ずることにより自身が相対的に「フェイク」ではないかのように満足している節が見受けられたのだ。そもそも、「フェイク」かどうかの判定をするに値する人間は、「フェイク」が何かを知っており、判定する能力があり、さらに判定される人間について十分な知識があることが前提であろうと推論されるが、このようなものがあるかに関わらず人を「フェイク」かどうか決めつけようとするのは、如何であろうか。

 それでは、どのような態度が肯定されるべきなのか。私は自己本位的な態度こそ肯定されるべきであるとしてここまで論じてきている。しかし、自己本位的な態度を積極的に肯定することなしに、他己本位的な立場を否定することでしかその主張を肯んずることができていない。これこそまさに相対的な妥当性を元とする一種他己本位的な議論の仕方である。それどころか、私はいわば「他人や自身に対する態度」についての評論を行っており、それについて私が冒頭で否定していた自己防衛的な論の展開それ自体を行ってしまっている。結局、歯切れの良い批判も自己に再帰してその綻びをもたらすことは往々にしてあり、「ものを書く」ということの深遠さは若輩者には想像も及ばない。批判の対象としたい性質を自身の中に見つけ出してしまう葛藤や自己嫌悪、悔悛と向き合いながら、日常の中での思惟を綴るのをこのノートの今後の課題としたい。

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