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普通を演じる。「夜明けのすべて」を見て

上白石萌音ちゃんが好きで、朝ドラ出演が決まったことを喜び、相手役はどんなもんやろか、と萌音ちゃんを軸にした世界に突如、表れたのが「稔さん」だった。
「安子ちゃん」と言う声で、萌音ちゃんがさらに可愛く見える。これは誰だろう・・・?と思ったのが、松村北斗と、SixTONESとの出会いだった。

そんな、「もねほく」推しの私にとって、映画「夜明けのすべて」の公開は、待ちに待ったもので、指折り数え、公開日を待った。

公開2日目の舞台挨拶中継つき上映で、2回見た。さすがに一日に同じ映画を2回見るのは、人生初めてのことだった。

萌音ちゃんは相変わらずすごい。彼女の表情、立ち姿、影ですら、その変化を目で追わずにはいられないシーンがある。目が惹きつけられる。ぐっともっていく握力のような。
例えば、冒頭のベンチに横たわる背中の丸み。
例えば、会社の廊下を走り去る後ろ姿。
例えば、シュークリームを買ってきたと告げるときの気まずい口元の微笑。

いたって自然な演技なんだけれど、彼女が意図を込めて、その振る舞いをしているのが、伝わる。何を伝えようとしているのかが、届く。

一方、彼の演技は、言語化が難しい。たたえたい、と思うのに、何がすごいのか、よくわからない。

普通すぎるのだ。これまでの作品、ほぼすべて、そうだった。あの白々しいせりふ回しのノキドアですら、あの世界ではあれが、「普通」だった。
ライアーライアーでも、パーフェクトワールドでも、キリエのうた、でも。そこの世界にいる、その人ならば、そうするのが、普通、という姿を、普通に演じるから、馴染みすぎていて、引っかからずに通り過ぎてしまう。

ただ、彼が演じる役は、「じ、つ、は」という設定があるものが多い。一見して抱くイメージをさらに深める事実が後半に明らかになる。それを踏まえ、見返すと、驚く。さっき普通に見えていたものが、その「実は」を含んだものであったことに気づくからだ。

実は、自分に切りかかってきた人物と探偵のタッグを組んでいる、とか
実は、嫌っているふりをしている姉のことを好きだ、とか
実は、どうしようもない傷を抱えていた、とか。

私は今回の「夜明けのすべて」は、彼が雑誌でお気に入りの一冊として紹介したときから、もしかしたら実写化するのかも、と思い、原作を読んでいたから、設定を知っていた。

ただ、上映後、映画を見た人の感想を読んで、「あー、彼の設定を知らないで見て、実は、に驚きたかった」と、歯がゆく思った。

設定を知った状態で見ては、「実は」という作りになっていることに気が付かなかった。

初見で印象に残ったのは、シュークリームを押し返すときに、向きをひっくり返す動作だ。妙に残った。

あとは、炭酸水を飲んで、横の棚にあるガムをとるために滑らせる椅子のタイヤの音。あの体重移動や、体のそらし方。萌音ちゃんの芝居のように、何かを伝えるものではない仕草、だが、確実に、その人物がやる「普通」だった。

彼の芝居は、含有している情報量が多い。画面にいれば、目を引く、存在感がある、というのとは違う。彼が画面にいると、その世界がリアルになる。「そういうものだ」が生まれる。舞台装置型俳優、というか。

映画を見てから、ずっと言葉にしたかったが、しっくりくる論理展開が浮かばず、一か月も過ぎてしまった。

この映画の評判がいいことが、いい評判がシェアされる社会であることが、希望だ。

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