はじめて借りたあの部屋

兄に譲ってもらったシルバーの軽自動車に、大量の服と小さなちゃぶ台といくつかの日用品をぎゅうぎゅうに詰めて、私は実家を出発する。今日、私は結婚するのだ。
母と妹が見送りに出てくる。もう先が長くないであろう愛犬をぎゅっと抱きしめて、また会いに来るよと笑顔で発車した。新しい人生のスタートなのだ、私は泣かない。

目的地は新しく借りた2LDKのアパート。今日めでたく夫になる付き合って7年の彼氏は、予想通り寝坊してまだまだ着きそうにない。お互い実家暮らしの私たちは、各自荷物を車で持参し、新しく購入した家電は午後から搬入してもらう。
新居は二人の職場の中間地点あたりの、鉄筋コンクリート造で都市ガス、南向き、三階建の二階部屋。築年数は昭和生まれの私たちと同い年だった。
家賃は予算を多少オーバーしたが、2LDKで60㎡のこの部屋はほぼ一目惚れで即決した。

まだなんにもない部屋に一人入る。新品畳のい草のいい香りがする。深呼吸し、私は掃除を始めた。
1時間ほど遅れて夫が到着する。役所に婚姻届と転入届を提出しに行き、交番と銀行で住所変更を済ませ、家電の搬入に立ち会い、電球やカーテンを買いに行く。背の高い夫が電球を取り付けてくれたが、台所だけ天井が高く付けられない。肩車してもらい私が取り付ける。初めての共同作業、とゲラゲラ笑う。一気に部屋が明るくなった。

家具は何も買っていなかったので、私の実家にあったちゃぶ台をダイニングに置き、夫が実家から持ってきた古びた座布団を床に敷く。結婚して初めての、二人の部屋での晩ごはん。おかずは母が持たせてくれた昨晩の残りもの。私の好物の春巻き、当たり前のこの味が、これからは懐かしい味になるんだろうかと、途端に寂しくなる。
愛犬の最期に立ち会えないかもしれない。すぐ別れたくなるかもしれない。実家が恋しくなるかもしれない。でも私は、この部屋で、この人と暮らしたいと思ったのだ。自分が選んだ人、自分たちで決めた部屋。ここには私たちの未来が詰まっている。

結婚して3年、私たちは家を買い、引っ越すことになった。

結婚した、喧嘩した、子猫を2匹拾った、娘が生まれた、他人だった私たち二人が5人家族になった部屋。私たちを家族にしてくれた部屋。
荷物を全て搬出した後の部屋を掃除する。私はもうすぐ1歳になる娘を抱き、夫に掃除機をかけてもらう。入居した時にはなかった壁のシミが、なんだか愛おしく感じる。
もう、い草の香りはしない。代わりに私たちのにおいがする。

夫を嫌いになりそうな時、私は決まってあの部屋を思い出す。そこには、仕事が終わったら急いで帰ってご飯を作って待っていた、ずっとこの人と一緒にいたいと思っていた、新婚の時の私がいる。
だから本当はしょっちゅうあの部屋に帰っているような気がする。きっとこれから先、何百回でも何千回でも思い出すのだ。あの部屋と、たくさんの思い出を。

#はじめて借りたあの部屋

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