線路の上の鳥獣戦隊。

島本和彦著「アオイホノオ」単行本最新22巻届く。いつも通り2巻遡って最新巻を含む3冊を、まとめて愉しむ。ひとまず夜勤明けのまま20巻を読了。

同巻にて「太陽戦隊サンバルカン」のくだり登場。自分の戦隊モノ初体験がそれだったと、不意に思い出した。ところが調べると、初回放送は81年2月で当時2歳。

敵キャラや印象深い回の記憶が2歳当時のものとして今も割合あざやかに残っていることが矢庭に怪しくなってきて、「サンバルカン」の<次>に観たと記憶していた「電子戦隊デンジマン」のことも調べてみた。すると、そちらの初回は1歳の時(おまけに「サンバルカン」の前番組)だったではないか。

空けたビールで酔ってきたことも相まったか、記憶の中の時空がしばし歪んだ。数時間後には出勤で、さっさと寝ればいいところに時代考証グセ発動。そうしてネットの知恵袋的なものまで診てしまうと、当時は全国各地、各ネット局独自のローテーションで、頻々と再放送が行なわれていた、という情報があっさり散見。

改めて幼少時の記憶をたどってみると、とりわけ鮮明に浮かんだのは夕方の屋外の風景。その頃は父親の勤務先の社宅マンションに住んでいて、建物の裏側には鹿児島交通枕崎線、通称「南薩線」の線路が走っていた。

社宅に暮らす子供たちは当時、易々と線路内に入って遊び、当然、自分もその中のひとりだった。そんな子供たちを叱る大人の声をも思い出せるが、音といえばやはり夕刻を告げるべく町に割れ響いていた時報のメロディだ。

我が町のメロディは「七つの子」だったと、これまた思い出せるのは、メロディに合わせてあの「ドリフ」の有名なネタ、カラスの勝手でしょー、を合唱していたことが厳然と脳裏に蘇るから。

その時報を聞くと、遊びを途中放棄して一目散に帰宅。そして「サンバルカン」「デンジマン」を観たのだ。おそらく、いや、絶対に再放送で。当時のテレビ業界の再放送の通例を思えば、その両方が並びで放送されていた可能性すらも浮上する。もとい、そうであったに違いない感すらしてくる。

そして戦隊モノに続いて放送されていたのがアニメ「鋼鉄ジーグ」だ。こちらはもう、はっきりと記憶がある。だが「鋼鉄ジーグ」に至っては初回放送は75年10月で、これは自分の生まれるおよそ3年半前だったということになってしまう。

記憶とは。記憶なんて。

「太陽戦隊サンバルカン」「電子戦隊デンジマン」「鋼鉄ジーグ」、これらの劇伴や主題歌を手掛けた作曲家は渡辺宙明。そして作詞が、それぞれ山川啓介、小池一夫(!)、林春生。

やがてポピュラー音楽を体系的に掘り返すようになった自分は、レコードや文献の上で、これらの御仁方の作品ともれなく再会したのだった。まるで、導かれたかのように。

線路の上で鳥獣戯画よろしくじゃれていた一味の端くれであった頃。選択権というものを知らずの内に、また、出逢った定めも知らずの内に、きっと(娯楽の)教養を注入されていたのだと思う。

長引いた思索はこれくらいにして、「アオイホノオ」21巻の扉をそろそろ――開かずに、ここは寝ることにしよう(眠れるのか?)

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