炭住(炭鉱住宅)で生まれて育って「お線香と白い提灯」

昭和35年7月16日
福岡県嘉穂郡稲築町(現、嘉麻市)に有った、山野炭鉱の炭住(炭鉱住宅)の緑が丘社宅で生を受けました。

でも戸籍謄本上の出生地は、飯塚市菰田となっています。

産婦人科の所在地なんでしょう。

長姉は自宅で助産婦さんから取り上げられたそうですが、次姉と私は産婦人科生まれです。

僕が生まれた当時は自宅生まれと産婦人科生まれが半々位だったでしょうか。

自宅生まれは強い子で産婦人科生まれは軟弱な子。

なんて事が小学生時代にまことしやかに囁かれていた時代でした。

自分自身を振り替えると、あながち嘘では無いなと...

閑話休題

炭住の事。

一番記憶に残ってると言うか、忘れてはいけない事...

昭和40年6月1日、日本の炭鉱史上戦後二番目の大規模な炭鉱災害が、目の前のボタ山の地下で起きたんです。

当時5歳になるちょっと前の僕の目に飛び込んできたとっても異様な光景。

その当時は生まれた緑が丘社宅から、枝坂(えださか)社宅ってとこに引っ越していて、そこは地名のとおり高台で、桜の木が一杯植えられていて、桜の枝の下を坂道が何本も通っている場所だったんです。

その高台から、ボタ山や堅坑(たてこう)のやぐらが何機か見渡せたんです。

堅坑ってのは、まず垂直に地中深く穴を掘って、石炭層に当たると、そこから縦横に石炭を堀りながら、トンネルを作って採掘するやり方の、垂直な坑道の事なんですね。

堅坑のやぐらは、石炭を運び出すのと、人を上げ下げするエレベータのでっかい滑車なんです。

そのやぐらの上を、物凄い数のヘリコプターがブンブン飛び回っていたんです。

地上にはおびただしい数の消防車や救急車やパトカーの赤いランプがチカチカしてました。

ヘリのブンブンという音とサイレンの音がもの凄くて、鍵っ子だった私は、小学生の次姉に連れられて外に出て、その光景を見たんです。


チビだったから許してくださいね。

その光景を見て、「ねーちゃん、これくさ、炭鉱掘ったら穴の中からゴジラが出てきたっちゃない?」

「すっげー!」


そう叫んでたんですね。


当時小学校3年生だった姉は、薄々何が起きたか分かってたんでしょう。

私の手を引いて「お前バカやん?」と呟いていたように覚えています。


翌日だったか、翌々日だったか、もっと後だったか...


夕方に親父、お袋が帰ってきて、「たつる!よそ行きの服に着替えなさい」って言うんです。

よそ行きの服ってですね。
当時はデバートに行くとか、家族で外食に行く時しか着なかったんですよ。

だから、どこに連れていって貰えるんだろうと、ワクワクしてたんです。

夕方暗くなってからだったし...。


枝坂社宅ってのは、2軒長屋の社宅で、玄関の前に門、と言ってもちっちゃいですが、門と垣根に囲まれた社宅なんです。

密集した社宅のその門に、至るところに提灯がかけられて、さながらお祭りみたいだったんです。


赤いお祭りの提灯ではなく、白っぽい提灯だったんですけど...


お線香の臭いが、社宅中に漂ってたんです。


当時のお祭りと言うと、生まれた緑が丘社宅のすぐ下に有った野球場、硬球グラウンドと呼んでました。

その硬球グラウンドでの盆踊り位しかなかったんですね。

お盆だしお線香の香りと提灯と...。


だから、お祭りかと思ったんです。


生まれて初めてのお通夜でした。


社宅中が明るくて、よそ行きの服来てワクワクしてたんです。

何軒のお宅を弔問したか覚えてませんが、幼稚園の同級生の女の子んちに行ったのを覚えています。

玄関の上がり口辺りに祭壇が有って、キラキラしてました。

キラキラ、キラキラしてました。


あれは蝋燭と灯籠だったんでしょう。

祭壇にはお花とお供物が並べてあって、果物がですね、駕籠一杯にお供えしてあったんですね。

「うわっ!すっげー!!」
「美味しそう!」

何にも分からないチビの僕は、思わずそう口に出してしまっていたんです。

親父から「バカちん、なんを言いよーとか!」

そう言ってコツンとやられて、しょげかえってたんです。

そしたら、そのお宅のおばちゃん、同級生のお母さんだったか、親戚のおばちゃんだったかは定かではないんですが。


そのおばちゃんがね。

とっても優しい顔で

「ター坊、美味しそうやろ?食べたかろ?いいよ食べて。」


そう言ってね。

バナナを一本くれたんです。

とってもでっかいバナナ。

当時は台湾バナナと呼んでいて、なかなか自宅では食べさせて貰えないバナナだったんですね。


もう、嬉しくて嬉しくて...。

ニコニコしながら、大事そうにバナナを持って、また次のお宅を弔問したんです。


何軒も、何軒も。


突然お父さんが居なくなるって事。

父親が傍にいて、僕の手を引きながら一緒に弔問している僕には、その現実は全く理解できていませんでした。


恐らく同い年のその女の子も、まだその夜は理解できてなかったのかも知れません。


僕は小学校に上がっても、その悲しみは全く理解できてなかった様に思います。

そんな悲しみも知らずに、何の分け隔てもなく、男子も女子もいっしょくたにヤンチャ坊主とお転婆娘で、缶けりやら何やら遊ぶ事に一生懸命だったですね。


お父さんが居なくなった子も、お父さんが元気に働いている子も、みんな自分の子供の様に、悪さしたら目一杯叱ったり、喧嘩して泣いてると、優しく「どげんしたと?」と言って頭を撫でてくれたり、お菓子をくれたりする。

少し自我に目覚めて、少し色気付いて、初めての制服に身を纏うまで、それまでずっと...


いや、その後もずっとですね。


そんな周りのおいちゃんやおばちゃん達に、見守られて育って来たんですね。

僕らは。


炭住の長屋で、とっても優しい眼差しをずっとずっと向けられながら。

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