炭住(炭鉱住宅)で生まれて育って 「あの頃はなにもなくて...」

ある歌をYouTubeで聞いたら、心がふわっとチビの頃に戻ったんです。

昨年の4月から滞在している石垣島の自然や、飾らない島の子供たちの元気な姿を目にしているせいも有るのでしょうかね。

石垣では、夏の頃は夕立というかスコールのような土砂降りの雨の中でずぶ濡れになりながら公園でサッカーとか平気でやってる小学生の男の子や、ずぶ濡れになりながら自転車のペダルを一生懸命に漕いで下校するセーラー服の女子中学生とかを良く見かけるんです。

小学生のぼーず達は、雨が嬉しい様な感じだし、女子中学生も大変そうだけど、雨なんかにはへこたれないぞ感満載で、なんとなくとっても懐かしい風景を見るような想いがしています。

スーパーに行けばお母さんと一緒に買い物に来て、沖縄県人独特のクリックリの可愛い目をキラッキラに輝かせて、密かに?お菓子売り場を狙ってる半ズボンやスカート姿のおチビちゃん達が必ずいるんです。

そっちはダメ!って、やっぱりお母さんから怒られてるんですけどね。

でも毎回狙ってる(笑)

50年以上昔の炭鉱住宅街と比べては怒られるかも知れませんね...

さて、50年以上前の炭住の悪ガキ時代の事。

僕が生まれたのは、旧、福岡県嘉穂郡稲築町(現、嘉麻市)と言う筑豊の炭鉱では一番最後に閉山した山野炭鉱の炭鉱住宅でした。

山野炭鉱はとっても大きな炭鉱だったので、社宅がいろんな地区に分かれてたんです。

僕が物心ついて育ったのは枝坂(えださか)社宅と言う社宅で、僕の家から小学校まではダッシュすれば2~3分で着く様な所でした。

忘れ物をした時に「先生、俺、〇〇を忘れもんしたき、取りに帰って来てよかろ?」と言ってダッシュで取りに帰った記憶がかすかにあります(笑)

あきれ顔しながらも「早よ行ってきんしゃい!」と言って許してくれる、安全で穏やかな時間が流れていた時代でしたね。

教室中の爆笑の渦を背に、きっとラジャーだったか何だか当時の流行りの掛け声かけて猛ダッシュで駆け出したんだと思います。

社宅の中にちっちゃな公園があって、確かブランコと鉄棒とシーソーが有りましたが、半分が空き地で、そこが僕らの遊び場だったんです。

枝坂社宅もそれ自体が広いので、その公園周辺には同級生は一人位しかいなくて、学年関係なく上は1学年上から下は2~3学年下までが一緒に遊んでました。

みんな上下関係なくあだ名で呼んでましたね。

僕はありがちな、たー坊と呼ばれてました。

男の子も女の子も一緒くたで、男子系の走り回る様な遊びに夢中になってましたね。

その中に2個下だったでしょうか、途中で転校してきて、たった1年居たかどうかでまた転校していった、確かリカちゃんだったと思いますが違ってるかもしれません。

とっても細身でちっちゃくて、クリクリッとした炭住育ちには似つかわしくない、可愛らしい女の子がいたんです。

炭住育ちの女性の方、ご覧になってたらごめんなさいね...

僕は小学生の頃は運動神経だけは抜群で、足も学年で一番早くて、腕白で、泣き虫だけど遊びにかけては誰にも負けませんでした。

なので敵味方に分かれてやる様な遊びの時には、その子は僕のチームに入りたくて仕方なかった様で、僕のチームになると「やった!たー坊と一緒だ♪」と喜んでくれていました。

恋愛なんて漢字も知らなければ、感情も知らない鼻たれ小僧の小学生ですから、無邪気なものですが、末っ子長男の僕にとって当時はとっても可愛い妹の様に想ってたんだと思いますし、その子ももしかしたら兄ちゃんの様に思ってくれていたのかもしれません。

YouTubeで聞いた歌は、きっと高校時代を歌った歌なんだろうと思います。

でも、僕は何故か最初は中学生時代を想い出したんです。

そしてそこから記憶を辿って行ったら、いつの間にか小学生の頃に心がふわっと戻って行ってたんですね。

クリクリッとした可愛いその子の事なんて、これまで一度も想い出した事はなかったんですけどね...

学年が違うから、学校では転校するって先生も言わないんですよね。

当たり前なんですが...

居なくなって、初めて知ったんです。

バイバイも言ってあげられなかったんです。

僕は薄情者ですよね。

すぐにいつもの遊びにかまけて、いつの間にかそんな事も忘れてしまってたんですから。

「あの頃は何もなくて、それだって楽しくやったよ」

短かったけど僕らと過ごした炭住の想い出が、楽しかったとその子の心にも残っていると、とっても嬉しいですね。

「メロディ」玉置浩二

玉置浩二 『メロディー』Live at Tokyo International Forum 1997/11/22


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