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写経003 ”1990年代論”

説明:上から目線の添削や評論、解説じゃない。愛読、愛聴しているもの、衝撃を受けた文章や詞(詩)を筆写(手入力)して、どこに揺さぶられたのか、優れた表現を見つめ直す、取り戻すための習作シリーズ。自筆文字は汚いので悪しからず。今回はやや書評、そして雑感になってます。 

むしろ、九十年代の日本社会には、「新しい歴史教科書を作る会」(九七年結成)の運動のように、みずからが信じる(信じたい)「小さな物語=歴史」をセットアップし、それをかつての「大きな物語」の位置に仮設しては、他の物語群をシャットアウトするといった、物語たち同士の徹底した棲み分けが規模の大小を問わず観察されたーそれがのちのポスト・トゥルース時代を用意する。

『1990年代論』大澤聡 (著), 大澤 聡 (編集)

東浩紀関連の書籍をいくつか読んでみようと公立図書館で何冊か選んで読んでみた。上記以外にも現代のカルチャー(ヲタク文化のみならず)全般が陥っている細分化、リバイバル、リメイクから抜け出せない状況を考察している。

■共通言語が成り立たないディストピア・ニッポン

多感な時期が90年代=20世紀末だった僕も、上記の文脈にほぼほぼ当てはまる。好きなもの、興味あるものができるとハマる。そして深掘りしていき、細かい情報を集積し、コアファン化していくこと、「他の奴らとは違う」アイデンティ的高揚に、至上の喜びを感じるようになっていく。それが、排除の構造とセットになっていることを、10代の僕は気づいていなかった。


程度の差はあれ、そんな自分のような人々が増えたからフェイクニュースもポスト・トゥルース、ネットウヨも起こるべきして、起きているというのが、大澤氏他対談や寄稿している論者の共通認識、見立てだ。


自分が見たいもの、信じたいもの「だけ」を選び、反論や異なる意見・要素、妥協案に耳を貸さないと、どんな完成形になるのか?

美しい言葉でいうなら、ストイックや洗練されたモノなり人格が出来上がる。「やらないと決めたことを、徹底してやらない」ことだ。ストイックや洗練は、バッティングしたり、枠組みからはみ出る要素の「排除」によって成り立つのだ。Appleの製品はユーザーをうっとりさせるだけの優雅なデザイン、所作に至った。洗練の影には無数の屍や実装されなかった技術や方法論が転がっている。かつては互換機や自作パーツ文化もあったんですけどね、それはなかったことにしたいらしい。

当時から、胡散臭さと説教臭さと面倒くささしか感じなかった「新しい教科書を作る会」の関係者、周辺に居た人を調べてみたところ、杉田水●というアレな人が名を連ねていて、心底ゲンナリとした。ある意味、わかりやすいお手本になっているといえる。私達の作った教科書でお勉強すると、こんな「立派」な大人になれますよ、という訳だ。


僕は、なりたいとは思わない。


壁の落書きのような文になってきたので、自分なりの対処方法を記しておく。系統やジャンルなどの体系を一切無視して、一箇所でも好きと思えたら追いかけてみること。可能ならその分野のコアの人と短い期間でもいいので、交わってみること。そして、違和感を感じたら、全力でその場から離脱すること。


小さくてもいいので、引き出しの数は常に増やし続けた方がいい。これは実感を込めて言える。


追記:カリスマ性のある人、もしくはそういう見せ方が上手な人に引っ掛かりやすい人は、下記を意識してみてほしい。先輩、ありがとうございます!

先輩がこの言葉をつぶやいた直接的な背景はわからないけれど、ストイックになり過ぎないこと、なりすぎておきた悲喜劇の(読者の方々からの)相談に応えてきた方なので、勝手にシンクロニシティを感じて引用させていただきました。

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