ひとりあそび

 2LDKの間取り図がプリンターから十二枚吐き出されてきてわたしはその半分の六枚それぞれに丁寧に黄色い付箋紙を貼り付ける。最寄り駅と駅から会社までの行き方と時間と感想を書いた付箋紙。会社の資料が入っている透明ファイルの中身を抜いて間取りに入れ替えたら今日買ってきたマグカップの紙袋と一緒にする。マリメッコは紙袋まで可愛い。マグカップだけを買うつもりだったけれど結局新しいタオルも買ってしまった。それはでもまだ出さない。引っ越しまで待ってから使うつもりでいる。引っ越しが終わって余裕が残ってたら、それももう一枚買おう。五千円以上の買い物でチャームがもらえるキャンペーンはいつまでだった? そのあいだに買いに行きたい。もらえたら、わたしは新しい鍵につけよう。それまで、財布の紐は締めておかないとだめ。言い聞かせなければ散財してしまいそうだ。残りの、同じ内容の六枚を眺めて下見の日取りを決めてうまく回らなくちゃ、と思う。三つに絞って、効率のいい順番と時間を考えて、電話をして。だからまずは麻子と相談しないと。でもそれは向こうから連絡が来たあと、数日たってからがいい。あーあーもしもし? なるべく心配そうな声を出す練習をしておいて。でも難しい。いま狭いマンションの一室に響いたわたしの声、色で言えばピンクだ。気を引き締めてかからないと、マグカップも慰めるためにあげる物だから。お祝いじゃ、ないんだから。お祝いはこっち、いまわたしの手にある色違いのマリメッコ。四年と少し我慢したわたしに今日買ってあげた物。白に緑の花が咲いていて本当に可愛い。四年。それはいまのところ人生の七分の一だ。とてもとても長かった。もっと奮発しても良かったけれど、でも今回はマリメッコなんて目じゃないから、引っ越しがあるから、いまはこれくらいで、いい。麻子の彼氏の中で四年は最長だ。その前が一年ちょうど、その前が二年三ヶ月、一番初めは七ヶ月だった。浮気されたのは、初めて。少なくとも発覚した浮気は初めてだ。新入社員の女の子。麻子は名前まで突きとめていた。しおりちゃん。字は知らない。でもきっと可愛い字を書く可愛い子で性格もいい。彼女がいる先輩と寝てしまう新入社員は一般的にはきっと嫌な女だろう。でもわたしには、天使と同じだ。麻子と彼氏が別れるきっかけになってくれたのだから、どれだけ感謝してもしたりない。マリメッコのカップをあげたっていいくらいだ。だって今日わたしがマリメッコに行けたのもマグカップをプレゼントできるのもしおりちゃんのおかげだから。麻子を傷つけたことについては、わたしもこの先ずっとしおりという名前の女とは仲良くできないほど憎らしいけれど、それは麻子が彼氏と別れてから生まれる感情で、いまはまだ存在しない。それに麻子は怒っていた。泣いたりショックを受けるよりもずっと。もうだめかもしれないと言い始めて半年がたち発覚した浮気にまず麻子は爪を噛みながら悔しい、と呟いた。
「悔しくて疲れたから別れる」
 別れる。四回目の別れる。わたしは思う。四回目の、
 また戻ってきた。
 同棲を解消したら一緒に住まない? という約束までつけて。吉祥寺とか下北沢とかいいよね。同棲でご飯の腕はあがったから私作るよ。りーちゃんはアイロン得意でしょ私の分もやってね。計画をたてているあいだだけは暗い声のトーンが少しあがった。わたしの目に涙の膜が張って、麻子はそれを見て、やめてよー私本当に大丈夫だから、と言う。わたしは涙の意味について説明し直さない。し直せない。
 間取り図を撫でながら洗濯機や冷蔵庫はわたしのと麻子のとどちらが大きかったか考える。一方の処分費も試算にいれないと、思ってパソコンをもう一回開いた。携帯電話が鳴る。平日の午前三時。こんな時間まで起きていて電話をかけてくるなんて、いまはたったひとりしか考えられない。電話の内容は、考えなくたってわかる。四回目の「別れた」を、過去形のそれを聞くために深呼吸して通話ボタンを押す。落ち着いて、ゆっくり、窺うように、最初の
「もしもし」
 声がする前に、入ってくるテレビの音。バラエティーの大げさな笑い声。それから麻子がもしもし、って。起きてた? って。わたしは寝てたよと答える。もう一度深呼吸をする。笑いの中にスタッフのじゃない、他の誰かの吹き出す声が入っていたような気がした。そんなわけないのに。別れ話のあとで、そんな。携帯電話を持つ手のひらが熱くて少し汗ばむ。テレビなに? とわたしが聞く。なんでこんなこと聞いてるんだろう。番組名じゃなく数人の芸人の名前とアナウンサーの名前を麻子が答えて、わたしは面白いかどうか聞く。あんまり、と麻子。わたしの心臓が早撃ちを始める。
「結婚することになっちゃった」
 はにかむように笑う。麻子だけじゃなくて、テレビの前にいるに違いない、男も同じに。わたし、壁掛け時計を確認する。三時十七分。それから携帯電話の液晶画面も見る。通話時間が刻々増えている。二分三十七秒。三十八秒。三十九秒。電話に出てからまだ二分しかたっていない。だから、気を失ったり、したわけじゃない。三分。四分。漏れる声は麻子のものに間違いなくて、わたしの返事がないのに麻子は喋り続けている。手をジャージの膝で拭いて、もう一度電話を耳につける。ろくじかんくらいずっとはなしあっててねーでもけっきょくさいごにわたしがわかれたくないってないちゃってなかなおりのながれになってそうしたらとつぜんぷろぽーずされちゃってゆびわまでよういしてあってうわきしといてことわられたらどうするつもりだったんだろうねあははは。
「なんで?」
「ん。いま説明した通りだよ。だからね、きのうのじてんではもちろんわかれるつもりで」
 だからねの先から零れ落ちていく文字。まとまらなくて意味にならない。だから何回説明されても、なんで? なんで? なんで? 繰り返される。とうとう麻子が、
「ごめんね、迷惑かけて。相談聞いてくれてありがとう。ほんと、りーちゃんがいなかったら大変だった」
 謝る。感謝する。わたしに。わたしはそれにもなんで? と思う。思うけれど止まる。わたしはすべき言動を知っている。なんで? 以外の言葉が出てこないいまはその、二十八年間の経験と常識から導き出された言動に従うしかなくて、言う。
「おめでとう」
 そうして今度は自分で自分に、なんで? 全く、少しも、わたしは答えられない。
 電話が切れている。液晶は暗い。携帯電話を机に置こうとした拍子にパソコンキーが押されてスリープ状態を脱する。リサイクル家具のページと繋がったままのインターネットは洗濯機の買い取り見積りを表示する準備ができている。右上の×をクリックしてプログラムを終了させる。それからもう一度同じプログラムを開いて閲覧履歴を全て消した。プリンターの履歴も、消去する。十二枚の紙とマリメッコの紙袋ふたつ、都指定のゴミ袋に入れた。右手のマグカップも半分残ったミルクティーごと落とす。マグカップは割れずに、肌色の液体の中に転がった。紙袋が液体を吸って色を変える。ベランダに出しかけて、反対の玄関を開けマンションの階段を下りて一階のゴミ置き場に入れた。五月なのに風が冷たい。まだ誰も出していないゴミ置き場。こびりついた汚物から腐臭がしている。戻ってきて、引き出しの引っ越し屋のちらしも思い出してもう一度階段を下りた。吐き気をこらえて息を止めながらゴミ袋の口を開けて一緒にする。小さなゴキブリがサンダルの足先を駆け抜ける。これで全部、形跡はなくなった。約束も最初からなかった。だって、麻子は、謝らなかった。ごめんねは、約束についてのごめんねじゃない。破られたのに気付かれない約束は存在しなかったのと同じだ。携帯電話を充電器に繋いだ。メールがきていた。
〈おめでとうっていってくれて嬉しかった! ありがとう。おやすみ〉
 おめでとう、って、わたし、言ったんだ。なんで? 麻子が、結婚するから。結婚って、なに。それはつまり、別れない、ということ。別れないという約束。病めるときも健やかなるときも神がふたりを別つまで。経験がわたしにそれを暗唱させてわたしは気がつく。その約束の有効期限は死ぬまでだ。四回目の別れたは、ない。
「嘘でしょ?」
「おめでとう」からやっと時間が繋がってわたしの足は折れ曲がり冷たいフローリングの床に上半身が投げ出される。一緒に住むことだけじゃない。別れる、も、反故にされていた。突然。こんなに突然変わるにはなにか理由が必要だと思う。結婚を決めるためのなにかが。
 子ども。
 息を呑む。記憶を必死でたぐり寄せる。このあいだ、その前、その前、麻子が生理だったのは、いつ。二ヶ月前にカフェでナプキンポーチを出してトイレに行った場面が現れる。まだ寒くて、麻子は白いカーディガンを着ていて、量の少ないサラダランチだった。でもそれから先の記憶にその黒いリボンがついたポーチは見あたらない。握っていた髪の毛が抜ける。わたしは電話をかける。四時。だけどまだ麻子は起きていて、電話に出る。
「子どもができた?」
 もしもしもなしに聞いた。笑う麻子。
「違うよー。また変な心配するね、りーちゃんは」
「じゃあ」
 なんで? 堂々巡りだ。
「なに?」
「なんでもない。遅くにごめんね。おやすみ」
 携帯電話を閉じる。子どもはできていない。こめかみを押さえて息を吐く。でも、それなら結婚する理由が見つからない。それならまだ、わからない。五回目はあるかもしれない。色違いのマリメッコを使うことはなくても。小さな蜘蛛がつうっと腕から床におりていくのを見てわたしは一縷の望みをつなぐ。途切れはしないで、でも蜘蛛の糸とは違ってだんだんに細くなっていくそれと初夏を過ごし夏を抜けて、

 秋がきた。まだ葉は緑色を保っていても空気はどんどん軽くなる。窓を開けるとこもったふたり分の体温が逃げていった。湿った肺の中身が入れ替えられて、下着にカーディガンをはおっただけの体が大げさに震える。着替えに立ち上がるとハッカのにおいが鼻をついた。わたしは使わないシャンプーのにおい。家に置いてあるのと同じシリーズをわざわざ揃えて持ち込むくらい気を遣うならシャワーなんて浴びずに帰ればいいと思う。同じでも違ってても会社から帰ってきた夫が風呂上がりのにおいをさせることの意味はひとつしかない。でもわたしはそれを教えない。ばれないことをわたしは願っていない。
 付き合いはじめて四ヶ月たった。と、思ってそれから訂正する。付き合っている訳じゃない。最初からいままで、どんな確認も約束もない。だからこれは付き合うという状態じゃなく、ただ、寝るようになって四ヶ月、というだけだ。ことあるごとに言われるようにわたしが誘ったのが始まり。とても簡単だったと思う。二回飲みに行ったらもう目的は達成できた。簡単なことにわたしは安心して、いまでも、今日も、寝るたびに息がうまくできるようになる。だって、この人も、誓ったはずだ。結婚式に行った先輩に写真を見せてもらった。二年前。教会の前だったから確かに誓っている。でもその永遠は二年で簡単にこうなるのだから大丈夫ってわたしは言い聞かす。見えなくなりそうな糸を縒る。
 コーヒーを入れるために薬罐を火にかける。ガス台から一歩の距離の玄関の郵便受けを今日はまだ開けていなかった。数通の手紙とチラシ。一秒もかけず次々めくる手が、止まった。白い封筒。切手と、消印と、わたしの住所名前だけのこれ以上シンプルにはならない封筒。でも裏返した瞬間に華々しくその白が匂い立つ。この匂いはハッカのように鼻を通ってはいかなくて、わたしの脳みそが直接嗅ぎ取る匂い。右下にふたりの名前が連なって書いてある。知らない名前。どっちも、わたしは知らない。知らないって、思うのに、封筒を持つ左手がずしんと重くなる。これも脳みそへのダイレクトな刺激。立ったまま封を開ける。剥き出しの足の隙間を風が通り抜けていく。拡散する空気。わたしも散乱しそうになる。封筒を破る指先と腕、肩、首、頭が繋がっていない。だからちゃんと最初から読めずに結婚式の文字だけが突然宙に浮かんで見える。それを飲み込みもしないうちに封筒と同じ白のカードは勝手に披露宴にご案内申し上げる。文面じゃなく、形で、上等の紙とインクの感触とか、返信用葉書の様子からこれを結婚式の招待状だと判断する。二十八の常識はまたわたしの代わりに認識する。杉家の長女の麻子と佐々木家の長男の義男の結婚式。ホテルも、日取りも、決められて、わたしはそれを教えられるだけで、それにはもう抗うことなんて絶対できなくて。十二月二十六日、土曜日。わたしの誕生日は十二月二十七日で、今年は誕生日を祝ってはもらえないことがいまからもうわかってしまう。わたしは考慮の対象じゃない。関係がない。ふたりに。水滴が紙に落ちて染みを作るけれどインクは滲まず、ただ、濃くなって消えはしない。それでも止まらない、ぼつぼつ落ちていく水。
「なにしてんの?」
 肩口で声がした。振り向くとボブカットに揃えた髪の毛が涙でべとついた頬に貼り付いて肌を刺す。いつの間にかシャワーの音が止んでいる。口を間抜けに開いた上司が持っているわたしのバスタオルで涙を拭おうとして、わたしは頭を振る。上司に拭かれてもなんの意味もない。また手紙に目を落とした。一度止まった涙がまたあふれ出てくる。窓は閉めてしまったのだろうか。また空気が湿って、重くて、皮膚が剥がれてしまいそうになる。のぞき込んでくる上司を無視して、早く帰ればいいのにと思いながら招待状を何度も最初から読もうとする。でも言葉はまた散らばって意味がわたしにはわからない。
「それ、結婚式の招待状だよな」
 窺うような声音で上司が言う。わたし、やっぱりそうなんだと思う。思って息ができなくなる。
「泣いてるの、俺の、せい?」
 息ができなくて咳き込む。上司の手が一瞬背中に触れて離れる。そして次に上司を見たときにはもうスーツに着替えて、玄関に立っている。
「今日はもう帰るわ。ごめんな」
「待って、ね、今山さんも、出したの? こういうの、結婚式の前に。それで結婚したの?」
「ん、ああ、まあ、そうだけど」
 なら、
「別れてよ!」
 と、わたしは半ば叫ぶように言う。怯んで、怯んだ自分を隠してしかめ面になる上司。
「申し訳ないけど別れる気は、ないよ。大きな声を出すなよ。気持ちに応えられないのは、悪いけど」
 じゃあ意味なんかない、全然、この四ヶ月の意味はない。結局、その関係は安全で、法律とか世間に守られて、別れることよりずっと続けることの方がたやすいの。
「君と結婚はできない」
 そんなことどうだって良かった。出て行く上司。もう用済みの人。薬罐が甲高い声をあげる。それに割って入る携帯電話の着信音。わたしのじゃない。ベッド脇で上司のものが震えていた。拾い上げた液晶に流れる奥さんの名前。きっと取りに戻るだろう。外側のドアノブにストラップをかけて鍵を閉めてチェーンをかけた。一度切れた後にもう一回携帯電話は歌って、沈黙した。忘れられた携帯電話を拾ったのはこれで二回目だという記憶が蘇る。ひとつはいま、返したけれど、もうひとつはいまでもまだ。
 クローゼットを開ける。洋服の山の中に手を入れ山を崩しながら最奥の、ごわついた厚い布地を引っ張り上げる。十年前に着ていた紺色のピーコート。黴臭いそれに腕を通す。左ポケット。上から触れる。膨らみ。中を探るとすぐに冷たい金属に行き当たる。携帯電話だ。アンテナのついた、とても古い機種。電源はいまだに入った。もう十年、電波を発信することも受け取ることもなくて、だから当然鳴りも震えもしないこの携帯はでもわたしが初めて触れたときにはひっきりなしに音をたてていた。
 それは大学が終わって待ち合わせた駅前のドトールの丸いテーブルに載っていた。二回の前日と当日のキャンセルの後で、約束から一ヶ月がたった水曜日だった。高校を卒業して、ゴールデンウィークに一度会って以来だった。話すことはたくさんあるはずだったし実際、話ははずんだ。でも絶え間なく、麻子の、そのときは名実ともに麻子の物だった携帯を中心にテーブル上に短い波が立った。
「彼サンだ、ごめんね」
 そのたびに話は中断して、麻子はメールを打つ。そのうち中断もしなくなった。麻子は指と口を同時に動かした。あんまりずっと続くものだから、麻子がトイレに立ったときに、純粋な興味で、なにをやりとりしているのかメールを覗いた。悪意なんて、少しもなかった。液晶が暗くなってしまう前に背筋を伸ばして顎を突き出して逆さに映る文字を読む。見えたのは。名前。わたしの。麻子が呼ぶ呼び方の、わたしの、名前。数分前に麻子に喋った話。たった数分で麻子の彼氏から感想が届く。どうしてか、わたしはわかる。三人で話してたんだ。わたしと麻子じゃなくて、わたしと彼氏と麻子で。知らなかった。全く少しも気がつかなかった。血圧が急上昇して耳まで染まる。麻子に気付かれないように両手で抑える。わたしのアイスカフェモカだけが減って麻子のアイスロイヤルミルクティーは氷で薄まり量が増えていく。どこまでもいつまでもわたしたちは三人で、電源を切ればいいのにと呟いたわたしに麻子は大きな目をこぼれそうに見開いて
「なんで?」
 会わなかった二ヶ月間に麻子は麻子でなくなっていた。彼サンと同一化して、彼サンがいなければ麻子もいなくなるのだった。ワタシと麻子は小学生のときからずっと一緒で、いつもふたりでいたのに、たったの二ヶ月で麻子は勝手にひとりでふたりになっていた。わたしじゃない人と。帰り道、わたしのバッグにそれが入っていた。どうしてそこにあるのかもう思い出せなかった。居酒屋で、麻子のあとでトイレに入ったときに見つけたのは覚えている、忘れ物を拾って、返すつもりで、でもそのあとどうやってあれはわたしのバッグに移動してきたんだろう。悪気はあった、たぶん、あった。ないなら中身を見たりしない。でも見た。わたしの携帯からの不在着信が四回残る待受画面からメールを開いて、読もうとして、でも読む前に親指の動きを止める。フォルダが上から
 彼サン
 ともだち
 かぞく
 わたしは友達、で、だからともだちのところに分類されていて、当たり前のことだったけれどそこから親指を動かせなくなった。ともだちの型に嵌められて指一本自由ではなくなった気がした。それから返すことも捨てることもできずにずっとコートの中に十年間、携帯電話は静かに、いた。
 半年後に麻子と彼氏は別れて彼氏は彼氏ではなくなり、三人でもなくなった。三人だったことなんてなかった、錯覚だったと思った。それは数ヶ月で、また打ち砕かれる。年齢も大学も性格も顔も何もかも一人目とは違う男、だけどわたしには前となにも変わらない、わたしを三人目に押し出す男だった。
 でもそれにはいつも終わりがあって、終わればわたしと麻子はまたふたりに、なるから、それがわかっていたから、いままでは。結婚は、終わりの、終わり。待ってても、それは二度とこない。液晶がふ、と消える。ボタンを押しても、もう起動しない。三人でいることができなくて、そうして終わりがもうこないなら、わたしと麻子が終わりになるしか、ない。返しに行こう。ともだちフォルダから外に出る。三番手以上にはなれない場所から。
 黴臭いコートのまま外に出る。終電近い電車に乗る。乗り換えて、降りて、歩く。歩いて、麻子の家の前に着く。インターホンは押さずに、電話を鳴らした。
「いま家の前」
 わたしはこれを気持ち悪い行動だとわかる。ともだちの範囲を大きくはみだして、もう友情と名付けられるところにいない。だけど範囲の決まっている関係に意味はない。それは、ゲームだ。気味の悪いわたしは笑いながら麻子を迎える。
「どうしたの?」
「これ、返すね」
「なにこれ? なんだっけ」
 街灯と自動販売機の白い光に照らされて麻子は蒼白の顔色だった。携帯電話は麻子の手の中でひっくり返されて、やっと麻子は、
「あれ、これ私の」
 気がつく。わたしのにやついた顔は消える。忘れているかもしれないなんて、一回も思ったことがなかったからどんな顔をすればいいのかわからなくなる。
「プリクラ、彰じゃん。あは、懐かしい」
 代わって、麻子が笑う。十年間ひっそりとクローゼットで眠らされていた携帯電話が笑い飛ばされそうになる。
「盗んだのわたしが」
「え?」
 早口すぎて聞き取られない。焦りで血の気が引いていく、わたし。
「わたしが、盗んで、持ってたの」
「なんで?」
 まだ、麻子の笑みは消えない。
「なんでー? 意味がわかんないよ、りーちゃん」
「なんでわかんないの?」
「だってこんなもの盗んでどうするの。売るとかするならわかるけど。これ持ってた時期、喧嘩でもしてたっけ。もしかして、彰が好きだったとか。あははは。なーに、なんで今日わざわざ届けにきたの。こんなものいつだっていいのに」
「売らないよ」
 売るくらいなら、盗んだりしない。笑えるのは、これになんの価値もないからで、いらないものだからだった。わたしはこの携帯を笑って見ることなんて一回もできなかった、のに、麻子は。押しつけて、帰る。走れば間に合った電車を見逃して、ホームで、暗い線路を覗く。黄色い停止線よりも前に出る。つま先は宙に浮いて、警告音を発しながら次の電車が入ってくる。

 お茶をしよう、と呼び出されたのはホテルのカフェで、ドアマンがふたり立つ正面玄関に着いてからそのホテルの名前に気がつく。招待状で滲んだ文字の集合。招待状は持っていないけれど入る。フロント前に結婚式場の見学会を知らせる看板が立っていて、わたしはカフェに行かずにそっちに向かう。生花で飾られた入口のアーチを眺めていると後ろから声がかかる。黒いスーツの女性にご見学ですか? と聞かれて口ごもる。着信音が鳴って、出るのと同時に携帯電話を耳に当てた麻子の姿が目に入る。ふたりで、中に入った。円形の、壁の内部はカップルで混雑している。忙しくそのあいだをまわる黒いスーツの人々は客席に座るわたしたちには声をかけない。視線はすぐに外れる。
「携帯のこと、考えたんだけど」
 考えられた携帯じゃない携帯電話を弄びながら麻子が口を開いた。横を向いても、麻子は手の中を見つめるままでいる。
「りーちゃん」
 こちらの式場ではご希望により人前式の形をとることもできます、はい、そうです
「私のことが」
 外のチャペルはご覧になられましたか、はい、是非、ご覧ください、他にはあまりないタイプの
「好きだったり、するの」
「そうだよ」
 はい、はい、それはもう、おふたりの、永遠の、愛が、
「そうなんだ」
 誓われる日ですから、はい、あ、もう間もなくフラワーシャワーのデモンストレーションが
「義男にね、言われたの。三日前、りーちゃんが帰ってから携帯のこと話したら、もしかしたらりーちゃんが、私が義男を好きなのと同じ意味で好きなんじゃないかって」
「全然違う」
 まだ続く、吐き出される言葉と息を断ち切ってわたしは言う。
「そんなのと一緒にしないで」
 漂い始めた吐息が瞬間、もう一度麻子の中に戻っていく。あんな、彰でも武志でも浩介でも義男でも良かったものと一緒にして欲しくない。三人を、みんな、知ってるくせに、麻子が一番わかっているくせに隠してそして永遠の愛を誓う、そんなものと。終わる可能性があるものと。二十八才のいまじゃなくて、義男が東大生じゃなくて、ホテルでなんか式も披露宴もできない派遣社員で、ひどく太っていて、そうしたら、麻子は結婚しない。絶対に。顔と条件とに左右されるそれのなにが、わたしの、この感情より優遇される価値があるの。わたしはずっと、麻子の顔も条件も無視して、変わらなくて、
 わたしのこの感情だけが本物なのに。
 だから、
「麻子が結婚するなら、変わってしまって、義男くんとふたりでひとつになって、義男くんのことをなにより優先し続けるんだったら、わたしはいなくなるよ。だって、そうしたら麻子、わたしのことなんかいらない」
 どちらかを選んで欲しい。本物か、偽物を。
「違う」
 見返される目。重ねすぎたマスカラがダマになっている。わたしはわたしの心が見透かされたようで言葉に詰まる。本物。わたしは、本物だ。
「一緒だよ」
「一緒じゃない」
 声が震える。麻子の声は目と同じように真っ直ぐで、今度は散在したりせずに耳に吸い込まれる。
「別れたりくっついたりあんな、不確かな、幻想みたいなものと一緒じゃない」
「そんなこと言う権利りーちゃんにないよ」
 ネイルサロンで作ったヌードカラーの爪を噛む麻子。マニキュアにひびが入る。
「義男じゃなくてりーちゃんを優先してほしいんでしょ? 一番でいたいんでしょ? 他の誰がいなくてもいいんでしょ? これ、全部、私が彼氏に思うことだけど、りーちゃんの気持ちと、なにか違う? 変わらないよね一緒だよね。りーちゃんが言ってることと」
 ぼろぼろ、細かい破片となって落ちていくマニキュア。小さく光っていたカラーストーンも、ラメも、爪それ自体の細胞も。
「りーちゃんだって、彼氏より大事な友達が欲しいだけでしょ。結局彼氏が基準でしょ。上とか下とか考えて。武志がそうだったよ。私より大事な女友達がいるんだって、すごく偉そうに、言ってたよ。彼女じゃないから、寝てないから、そっちのほうが純粋な感情だなんて、ばっかみたい。りーちゃん、私のこと、彼氏ができるたびに変わった変わった変わったっていうけど、私、変わってないよ。りーちゃんが好きな私って、存在するの? 本当に?」
 カップルがみんな円の外に出て行く。
「私じゃなくていいのは、りーちゃんだよ。誰でも、いいんだよ。私をやめて、そうしたらきっと私じゃない誰かを見つける。そういう風に、依存できる相手」
 風に乗って花びらが足下を駆け抜けていく。いろんな種類の花びらが何枚も。麻子のスカートに落ちた爪の破片も飛ばされる。
「私の方がよほどちゃんと、あなたのことが好きなのに」
 麻子が、立ち上がり、フラワーシャワーの中に出て行く。わたしは、置いて行かれる。振り向くと義男がいて、麻子の手をとりながらこちらを見る。目が合って、小さく、頭を下げられる。なにかを呟いて、わたしにはそれがごめんなさいに聞こえる。どうして、謝られる。自分だって偽物のくせになんで。麻子は振り返らないのに、義男は何度も見る。何度も目が合う。鏡みたいに。
 靴にひっかかったピンク色の花びらを拾う。毛羽だった感触で、造花だとわかる。じゃあ、きっとアーチの百合の花も造花だった。綺麗だね、という歓声が聞こえる。蜘蛛が、花びらの先によじ登っていて、吐き出された糸が光っている。ふっと息を吹き付けたら、蜘蛛は飛んでいった。糸の先はどこにも繋がっていなくて、空中で途切れて、消えているのに、蜘蛛は不安も恐怖もなく、飛んでいく。
 
 

 
 

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