犬杉山町の人々〜あうとさいど〜

#短編オムニバス

「オレンジは黄昏より濃く」


今回の登場人物と本編には登場しない関係者
・八田八太……♂。犬杉山中教員。今回は手足千切れない。
・正樹雅樹……♂。連続殺人鬼。二つ名は「バイバイ・ディ・バイ・ディ(さよならはいい旅立ちの日)」。
・紀野紀乃……♀。連続殺人鬼。
「コールド・コール・ワンコール(冷たく、もう一度鳴らす)」。



 

 
 すっかり忘れていた。何か大事なことが頭の中から抜け落ちているような気がしていた。
教員として母校に赴任して数日、ずっとそんな気分でそれがなんだったのかわからないまま過ごしていた。思い出さなければならないような、触れてはいけないことだったような、漠然とした何かを忘れている――。
 それがふとわかった時、答案を採点する手が止まった。
 彼女のことだ。
他の教員が帰っていくのを横目で見ながらペンを置いて少し考え込む。本当になんで忘れていたのか。
 僕が最初に彼女を見たのは随分昔のことだ。
 いや、見つけた――の方が正しい。
 僕は彼女を見つけた。
 そう、僕が彼女をはじめて見つけたのは随分昔の――どれぐらい前のことだろうか。それはまだ母校である犬杉山中の生徒だった頃だから、そう十年ほど前だろうか。
 今日と同じ十年前の放課後の黄昏時、赤い果実のような空が今にも弾けてしまいそうなほど鮮やかに輝く頃。
 生徒会の用事をこなす為に静かになった校舎を歩いていた僕は、通り過ぎる教室の中に彼女の姿を見つけた。
 あの時、僕は呼吸を忘れるほどの眩暈を感じながら言葉を紡ぐことさえも忘れてしまった。
 オレンジよりも濃い落日の赤に染まった華奢な後姿に、忘れてしまった約束を思い出したような、過去という遺失物置き場に置いてきてしまった物と出会ったような、そんなどうにもできない切なさが胸に込み上げてきて声をかけることなんてできなかった。
 教室の少しだけ開いた窓から吹く風に長い黒髪がフッと踊るのが何故か儚く、オレンジのプリズムに君の姿が溶けて消えていってしまうような気がして、そんな彼女の後姿を僕はただ見つめ続けていた。
あの頃の僕にはなにもできなかった。
 結局、彼女にいつか声をかけようと考えていたが、触れればそのまま消えてしまような気がして見つめ続けるだけで三年間を過ごした。 
そう。そして僕はそんなこと、母校に赴任するまではすっかり忘れていた。
 時計仕掛けの毎日の中で、街角に張られたポスターが色あせていくように記憶の彼女は薄れ、考えることも少なくなっていく。それこそ、溶けて消えてしまったように。
ここに戻ってくるまでは。
ふいの懐かしさにふと、窓の外を見れば焼け落ちそうなほど赤い空。
 あの日と同じ黄昏時、赤い果実のような空が今にも弾けてしまいそうなほど鮮やかに輝く頃。
 視界の先に彼女のいる教室が映り、ああ、ここからなら見えるのだな――と、僕は勢いよく立ち上がった。そんなばかなことなどあるのか!?
 僕はペンや答案をデスクにしまうと職員室を出て廊下を歩き出す。見間違いがどうか確かめるために。
 ばかばかしいと思うかもしれない。あれからどれだけの時が過ぎているか。
自分でもなんでこんなことを思った。きまぐれなのだろう。あるいはもっと別の何かなのか。
ゆっくりと廊下で一度立ち止まった。
いるはずなどない、分かっていた。分かっているのに、僕はあの頃のように教室を覗いた。
一瞬の空白。
言葉がでなかった。
さもあたりまえのように。
 あの頃と何も変わらず。
 あの日のままで。
赴任した僕を待っていたかのように。

彼女はそこにいた。

 伸ばしかけた手をもう片方の手で抑え、もう一度彼女を見て廊下を通り過ぎた。
なぜ、なんで、どうして、浮かぶ全てを投げ捨てる。
なにもせずに立ち去る。
それが良いと思った。
直感だがそうしなければならないと。
だから僕は彼女を忘れていたのではないだろうか。
ここから先は踏み込んではならない領域なのだろう。
多分、戻れなくなる。
そうでなければ誰も口に出さないはずはない。
見えていたのだ、職員室から彼女のことは。
他の教員にも。何十年も前から。
そして、それは僕も守らねばならない。
僕が足早で職員室に戻ると彼女はまだ教室の中に立っていたのだった。できるだけそれを見ることなく僕は鞄をひったくり職員室から去った。
……。
…。
その後も僕は彼女に話しかけることはないままさらに年月が過ぎた。もう彼女のことは思い出す必要もないことだ。
 黄昏時、今日も職員室で生徒の答案を整理し、赤い果実のような空が今にも弾けてしまいそうなほど鮮やかに輝いて目を細める。
もう彼女のことは思い出す必要もないことだ。
窓の外を見れば今日も、彼女はあそこで夕陽を眺め続けていた。

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