本当は破壊的な「スカイウォーカーの夜明け」

ついに公開された続三部作の掉尾を飾る「スカイウォーカーの夜明け」だが、筆者も公開日とはいかないが可能な限り早く劇場で見た。そして激怒した。「最後のジェダイ」が切り開いてくれたはずの新しい世界がやってこなかったと思ったからだ。

脈絡もなく復活する銀河皇帝パルパティーンと、明かされたレイの高貴なる血筋。乱暴とも思えるフォースパワーのインフレ。「シスの復讐」で否定したはずの死者の復活。旧作のおいしいところどりのようなストーリー。すべてが勘にさわった。こいつらは「最後のジェダイ」から渡されたバトンをすべて否定した!こんな懐古趣味の映画を見るために俺は片道一時間かけて劇場に来たんじゃねえ!早く誰かとこの映画の不満点を共有したくて仕方なくなった。

しかし、映画ファンとしての自分はこの映画を「ずっと退屈せずにワクワク見ることができたな。エンターテイメント映画としてはよくできていたんじゃないか」というものであった。自分の中に相反する二つの意見が生まれた。「スターウォーズとして許せない!」「映画としてはおもしろい」これがどうにも引っかかった。

さてここまで読めばわかると思うが筆者は「最後のジェダイ」超肯定派である。「フォースの覚醒」を「しょぼい反乱軍」「しょぼい帝国軍」「しょぼいダースベイダー」「しょぼい銀河皇帝」「オリジナルキャストを接待するあほくささ」これらすべてが「スターウォーズ的なものを用意すればヨシ」とするディズニーの悪しき商業主義と見えたからである。よってこれらの6つの要素をすべて破壊しつくし、ラストシーンの一面塩の惑星のように更地にした「最後のジェダイ」を歓迎したのである。

そんなわけで、レイがただの捨て子だとわかったとき筆者はこうでなくてはならない。アナキン=ルーカスにつらなるものから離れなければ、ルーカスを抹殺しなければシリーズは先に行けないし、作る意味がないと思ったわけだ。

巷間では「最後のジェダイ」をシナリオの破たんしたクソ映画、ジェダイオーダーを否定し、シリーズの価値を決定的に棄損した犯罪的な映画という意見がどちらかといえば多数派で、一部の頭のおかしい一日中フォースのことを考えている連中だけが「この映画は素晴らしい」といっている。大多数の観客はシリーズの中でも最長な上に複雑に入り組み、正義であるジェダイが否定された同作を退屈と評価したのだ。肯定派の中にも「長すぎるのがネック」という評価は多いと思う。

「最後のジェダイ」が「ジェダイオーダーを根本から否定した」というのは誤解である。ジェダイを根本から否定したのはルーカスお手製の新三部作である。新三部作は徹底的にジェダイオーダーを否定している。ちゃんと見ればわかるがジェダイオーダーは旧三部作のダースベイダーがやっていることと全く同じことをしている。力に頼り、自分たちの意見を押し付ける悪しき組織だ。だから破れたのである。ジェダイオーダーが正義ならシスも正義だし、逆もしかりである。アナキンがフォースに調和をもたらしたとはジェダイオーダーの肯定ではなく、どちらともの否定である。だからヨーダも古文書なんて焼いてしまえといっていたわけだ。

閑話休題。筆者の「スカイウォーカーの夜明け」キレポイントをまとめると、「血族主義への回帰」「都合よくよみがえる死者」に集約される。「血族主義への回帰」はレイは銀河皇帝の孫という突如降ってわいた設定。「都合よくよみがえる死者」は、もちろん銀河皇帝復活とレイとレンによる死者蘇生。これらに見た直後は精神が平静ではいられなくなるほど怒っていた。

さてとかく評判の悪い「最後のジェダイ」はアンチ「フォースの覚醒」作品である。作ったものを完全否定され、がれきの山になった作品の監督を再びやることになったJ.Jはさぞ困ったことであろう。まずどうすれば離れてしまったファンに再び喜んでもらえるのか。そして「最後のジェダイ」の挑発にどうこたえるか。である。

J.Jはスターウォーズオタクだがきちんとした商業監督であるので、まずは「おもしろい」物を作らなければならないことがきちんとわかっている。言い換えると「客が満足して帰ってくれる映画」をつくることがなにより大事だとわかっている人であると思う。「大好きなスターウォーズが破壊されるところをみて喝采するやばい連中」や評論家うけの良かった「最後のジェダイ」はとにかく評判が悪い。ハードコアSM映画だから当然だ。これは良くないとわかる。だから「見て面白い映画」を作った。とにかく「最後のジェダイ」で不愉快に思われたところはすべて修正した。そして無難に、無難に完結編を作った。

と、我々「最後のジェダイ」に魂をひかれた連中は騙された。

そう、J.Jはおそらく観客を騙している。きちんとJ.Jはスターウォーズを破壊した。それも「最後のジェダイ」よりもはるかに明白に行っているのに、観客はすんなりと受け入れたのだ。前置きが長くなったがそれを今から説明する。

「血族主義への回帰」である。レイは銀河皇帝の孫であった。レイが強いのは銀河皇帝の血を引いていたからだった。結局、そこかよ!と、「やばい連中」は怒ったわけだ。筆者もしばらくこの考えにとりつかれていた。

すこし話が飛ぶが「スカイウォーカーの夜明け」というタイトルがどうにも腑におちていなかった。「夜明け」というからには「最後のジェダイ」までは「夜」なわけで、物語の最後には「朝」が来なければならない。しかし実際には「朝」を迎えるべきスカイウォーカー家の人々はことごとく死んでしまった。「朝」もクソもないだろう。だがこれはあくまで邦題であり、原題はあくまで「THE RISE OF SKYWAKER」である。ライズとスカイ(ウォーカー)で夜明けなわけで気が利いているじゃねえかベランメエと思いたくなる。しかしこれは「天に昇る」すなわち昇天、スカイウォーカーの死という意味なのではないかと筆者は考えた。日本の配給会社の意図的な誤訳なのではないだろうか。おそらくダブルミーニングなのはあっていると思う。つまり「スカイウォーカーの夜明け」はスカイウォーカー一族=ルーカスなるもののお葬式の話なのだ。

これですべてのつじつまが合うようになる。「血族主義への回帰」かと思われたレイの出自であるが、レイはそれを否定した。銀河皇帝になることもパルパティーンも否定した。そして、スカイウォーカーたちをねんごろに弔ったのちに、精神的な交わりを持つスカイウォーカーを名乗ることを選んで物語は終わる。一度血族主義を持ちだしてから、ちゃんと血族主義を否定している。捨て子だったレイは「選んで」スカイウォーカー」となった。(アナキンの父親シディアス卿設定を採用する場合この限りではない)

続いて「都合よくよみがえる死者」である。これも「スカイウォーカーの夜明け」を「スカイウォーカーの昇天」だというレイヤーで見ると見方が180度転換する。ずばり「死んだ人間は生き返らない」というのがテーマとなる。

どういうことだ、シディアスもレイもレンも生き返ったじゃないか!と思うことだろう。しかし、無理やり生き返らせたシディアスはきっちり作中で再び死んだ。レイによりカイロ=レンは死に、「最後のスカイウォーカー」たるベン=ソロは復活したが、与えられた命をレイに返すことによりやはり死んでしまう。プラスマイナスゼロとなっていたわけだ。死んだ人間をよみがえらせても意味がないというところで一貫している。一応「死する運命から逃れる術」はないという新三部作のテーマとも合致する。

この二点「スカイウォーカーの昇天」「死んだ人間を生き返らせることはできない」であるが、アンチ続三部作であり、アンチディズニーである。一件ウェルメイドではあるが、アナキンの一族を全員葬式送りにし、死んだシリーズを生き返らせても意味がない、これが「スカイウォーカーの夜明け」の裏テーマなのではないか。

テーマの話から興業的な話に戻す。「最後のジェダイ」は怒りに任せてすべてを破壊した結果、興業的には失敗した。だからJ.Jは「最後のジェダイ」を完全否定して無難な作品でお茶を濁したというのは、はたして本当にそうなのだろうか?

「最後のジェダイ」は強烈に古くからのつながりを否定した。しかし、本当にそれでよかったのだろうかとも思う。やっぱり僕らはスターウォーズに育てられたルーカスの精神的な子どもだし、スターウォーズを愛していたことまでは否定してはいけないとも思う。だからスターウォーズをあの世に送りつつも、つながりをもっていこうじゃないか、こういう落としどころが「スカイウォーカーの夜明け」にはある。

しかしながら夜明けの先に待っている世界を見せてくれることは出来なかった。それだけが残念だ。結局は破壊で終わり、再生は行われなかったと思う。

エンターテイメントとして成立させつつ、ノスタルジーで乱造されるスターウォーズを否定する「最後のジェダイ」から渡されたバトンをきちんとJ.Jは受け取り、そしてはるかにたくみに無難に見えるように時限爆弾を仕掛けたのではないだろうか。いつか誰かの頭の中で、フォースの導きによって答えが炸裂するように。

















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