古いパソコンのパスワードを忘れた

 大学時代に愛用していたノートパソコンがいまだに戸棚にしまってあった。捨てればよいものだが、この中にしか存在しない未発表楽曲のデータが山ほどある。作曲ソフトのサービスが終了していて、引き継ごうにも引き継げないのだ。

 一般的に、自分が生み出したものの整理をする必要性はめったにやってこない。誰しも日常的にバシャバシャと写真を撮ったりポチポチと動画を撮ったりするが、それらをわざわざ階層化して仕分けている人は少ないし、その必要がある人も少ない。データになってしまえばいつでも取り出せる、と安心するのも人の性だが、いざ欲しいときには、どういうわけか取り出せないものだ。ここにはビジネスチャンスがありそうだなとも思う。いつ撮ったか忘れたけど、今すぐ観返したい、または目の前の誰かに観せたい、そんな写真や動画を、スマホを無限にスクロールしなくても一声ですぐ呼び出せる仕組み。月額200円くらいは払っても良さそうだ。

 まあビジネスチャンスはともかく、ぼくは昔の曲を再編集するために、いにしえのノートパソコンを充電ケーブルに繋いで起動した。約5年ぶりのことである。久しぶりに開いたキーボードは驚くほど薄汚れて見えるが、出迎えてくれる起動画面は懐かしのウィンドウズ7そのものである。

 何ともなしにいつものログインパスワードを入力した。

 違います、という。

 さまざまなサービスで長短に応じて使い分けているいくつかのパスワードを矢継ぎ早に試し打ちする。しかし、やはり違うらしい。

 はて困った。これではビジネスチャンス以前の問題だ。

 かつて毎日のように入力していた文字列を、5年ぽっち使わないだけで忘れてしまうものだろうか。さもありなん、だいたいパスワードというものは指の慣性で打っているもので、文字としての記憶でなく、ほとんど身体的記憶ともいえるのではないだろうか。スポーツの構えと同じで、一度違うフォームに慣れてしまったら、もう元のフォームには戻れないのである。人間は機械のように文字列そのものを覚えるようにはできていないんです。そこんところよろしくお願いしますよ。

 とかなんとか言ったところで、要するに不精が祟ったという以外の何物でもない。必死に当時の記憶を手繰り寄せる。卒業したばかりの高校の名前か? 違います。好きだった子の名前か? 違います。「unko」か? 違います。

 むかつくのが、古いパソコンならではの気まぐれな処理落ちにより、時折りログインに成功したように錯覚する間が発生することだ。ポインタが輪っかに変わってぐるぐるする。おっ、いけたか? と思うと時間差でまた、「違います」とくる。なんだてめえ。

 ぼくは腹が立って酒をがぶがぶ飲み続け、ついに理性のセキュリティを失った。

 目が覚めると午前2時である。開け放った窓からは鈴虫の鳴く声が聞こえ、早くも秋めいた夜長の涼しい外気が部屋と自分を包んでいた。ついでに言うと部屋は24℃の冷房がガンガン効いており、そのうえ扇風機もデカい音を立てて首を振っていた。

 ぼくは酒による昏倒から起き上がる者に特有の、焦ったようなすばしこい動作でもって起き上がり、冷房と扇風機を止め、再び点けっぱなしのパソコンに向かった。

 そのとき、思い出したのである。

 17歳のときまでパソコンは弟と共用だったこと。よく一緒に音楽を聴いたり動画を観たりして楽しんでいたこと。大学入学とともに自分用の新しいパソコンを親に買ってもらうが、引き続き弟にも使わせようという親切心を持ち合わせていたこと。しかし2年後には弟が大学入試を控えていたこと。入試への願掛けと、ネットサーフィンをし過ぎないよう戒めをも込めたパスワードを設定し、弟にも共有したこと。

 パスワードは「juken」であった。

 暗闇の中で、懐かしいログイン音とともに懐かしいデスクトップ画面が目の前に開けた。

 いや、願掛けなら「gokaku」とかにしろよ、と思わないでもないが、なんとなく「juken」のほうがクールでスマートな感じもするな、などとどうでもいいことを考える。それにしてもなぜ諦めかけてフテ寝してから突然記憶が蘇ったのか、その脳の仕組みはまったくもって謎である。ただ、酒のおかげであることだけは間違いない。

 そういうわけでぼくは無事に過去の楽曲データを書き出し、明け方までリミックス作業に没頭し、テンションがぶち上がり、翌日は仕事に行きたくない一心で会社を木っ端微塵に爆破したのであった。

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