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記憶喪失

たまに取材などを受けたとき、「子どもの頃はどういったお子さんでした?」と聞かれて返答に困る。中学以前の記憶がほぼすっぽりないのだ。

たまに子供の頃のことをすらすらと語れる人に会うと、その記憶力に驚いてしまう。

もしかしたら家族にあまりかまってもらえず、世にいう家族サービス的なものをほとんどしてもらえていない暗黒の幼少期だったのではないか…との疑いがよぎる、、、
何気なしにそんな思いを家族に言ってみたら「あんたはかなりあちこち連れて行ってるし、たくさんやってもらってる!」と怒られてしまった(笑)

それならなぜ覚えていないのだろうか?

最近読んだ藤子・F・不二雄氏(ドラえもんのほう)の自伝に、「人は成長するにしたがって視点が高くなる。よって子供の視点に降りて行きづらくなり、子供の頃を振り返るのが難しくなる。」のようなことが書かれてあった。
このせいかな?とも思ったが、これは子供目線が取りづらくなるということで、記憶を失ってしまうってことではない。少し違う。

なぜ、なぜだ…と考えていた時に、祖父の葬式のときに自分で言葉にしたスピーチを思い出した。大好きな祖父だったので亡くなったのはとても悲しい出来事だったし、通夜のとき「明日弔辞を述べよ」と急にふられ寝ずに懸命に考えたから今でも少し思い出せた。
確か「祖父の思い出を語ろうとしましたが、なかなか思い出せません。おそらく絶え間なく幸福であったために思い出せないのです…」
そういうことを言ったと思う。

悲しい出来事やショックだったことは覚えていることが多い。しかし幸福だった思い出たちは、悲しい出来事を黒い点に例えるならば、きっとその周りの真っ白な白紙の部分に違いない。白い部分は常に見えていても見ていない=「見た記憶がない」のだ。

結論はきっとこう。周りが僕に苦労をかけないよう、コンプレックスを抱かせないよう、悲しい思いをしないよう、たくさん気を使われて育てたんだ。まんべんなく幸福であったために記憶がないのだ。

そういうことだったのか…そうしてくれた人々にもっと感謝をしないといけないな。そして「してやった」ではない心遣いを僕も周りに配りたい。

わりかし「人でなし」であろう僕にそれが出来るだろうか…(笑)


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